【文庫双六】“異質”な鎌倉文士 葛西善蔵の破綻ぶり――野崎歓

レビュー

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哀しき父・椎の若葉

『哀しき父・椎の若葉』

著者
葛西 善蔵 [著]
出版社
講談社
ISBN
9784061963023
価格
1,134円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

“異質”な鎌倉文士 葛西善蔵の破綻ぶり

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

【前回の文庫双六】鎌倉でみつけた恋よりも特別な繋がり――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/555534

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 綺羅、星の如く並ぶ鎌倉文士たちの中から、少しばかり異質というか、鎌倉の上品なイメージからやや逸脱した作家を取り上げたい。

 葛西善蔵が鎌倉で暮らし始めたのは1919年末、作家32歳のときだった。妻と3人の子を青森の実家に残しての一人暮らしである。閑静な禅寺の塔頭(たっちゅう)(小院)に暮らして執筆に励むのだから、悟りの境地に至りそうだ。

 だが何しろ骨の髄からの私小説作家にして、生活破綻者・葛西のこと。そんな環境もたちまち、悲惨な泥沼状態に転じてしまう。

 カギとなるのは「おせい」の存在だ。ふもとの茶屋の娘おせいが登場するのは、建長寺境内に暮らし始めた日々を描いた「暗い部屋にて」である。

「おせいは二十で、背丈の低い、肥えた、頬の赤いまったくの田舎娘だ。角い幾らかお凸の額の下の小さな眼を臆病らしく輝かして、私にお辞儀をした。このおせいがその晩から三度々々S院の石段を登って来て私のところへご飯を運んでいるのだ」

 おぼこな娘が眼を「臆病らしく輝かして」いる。その眼光が以降の展開を予告するかのようだ。葛西は気を引かれている様子ではない。だがどうもおせいのほうは、ふらりと現れたこの作家先生に一目惚れしたのではないか。

 毎日、朝昼の出前と給仕に加え、夜は大酒を喰らう癇癪もちの作家の相手をして12時近くまでお酌をする。ただならぬ献身ぶりである。

 やがて葛西はその気もなかったはずなのに、おせいを孕ませ、何の潤いもない極貧の同棲生活に入る。「自分は、おせいとの関係を呪いたい」(「湖畔手記」)といいながら、彼女を虐げ続けるのだ。

「生活の破産、人生の破産、そこから僕の芸術生活が始まる」(舟木重雄宛書簡)。まさに有言実行の作家魂というべきか。だがその文章は意外にも、ひそかなユーモアと諦観をはらみ、ときに清澄さに達している。

新潮社 週刊新潮
2018年7月19日風待月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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