【文庫双六】文学者と温泉は縁が深い そして逢びきの場にも――川本三郎

レビュー

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浮雲

『浮雲』

著者
林 芙美子 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784101061030
価格
680円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

文学者と温泉は縁が深い そして逢びきの場にも

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

【前回の文庫双六】“異質”な鎌倉文士 葛西善蔵の破綻ぶり――野崎歓
https://www.bookbang.jp/review/article/555891

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 私小説作家のなかでもとりわけ渋い葛西善蔵の作品が現在でも文庫で読めるとは意外な驚きだった。

 一般に私小説は、貧困、病気、家庭の崩壊、道ならぬ色恋を描くものが多いが葛西善蔵はまさにそれ。

 代表作に「湖畔手記」(大正十三年)がある。「とうとうここまで逃げて来たと云う訳だが」で始まるように、作家として行き詰まり、妻とも、「おせい」という妊娠させてしまった女性ともうまくゆかなくなった「自分」は山奥の温泉宿に逃げ、小説を書く。

 舞台は奥日光湯元温泉。葛西はここの板屋という旅館にこもって苦吟しながら書き続けた。袋小路の生活なのに作品が意外と明るいのは奥日光の湖に沿った温泉地の風景ゆえだろう。

 湯(ゆ)ノ湖(こ)という湖の兎(うさぎ)島には現在、葛西善蔵の文学碑が建てられている。

 昔の文士はよく温泉宿に泊った。宿で執筆したり、その温泉を作品のなかに取り入れたりした。

 尾崎紅葉が「金色夜叉」を書いた塩原温泉、夏目漱石が転地療養した修善寺温泉、志賀直哉が愛した城崎温泉、川端康成が「雪国」を書いた越後湯沢など文学者と温泉は縁が深い。

 林芙美子は旅好きだったから、出かけた温泉を作品の舞台にした。

 戦後の名作「浮雲」では主人公のゆき子が妻子ある富岡と関係を続ける。戦後まもなく二人は暮れから正月にかけて伊香保温泉にお忍びで出かけてゆく。

 徳冨蘆花の「不如帰(ほととぎす)」の舞台になり一躍全国に知られた。世を忍ぶゆき子と富岡はそこに出かけてゆく。

「不如帰で有名な伊香保と云うところが、案外素朴で、如何にもロマンチックだった」

 二人が泊ったのは「金太夫(きんだゆう)」という旅館。実在で、林芙美子は終戦後間もない昭和二十一年の冬にここに泊っている。

「浮雲」の二人はさらに伊豆の長岡温泉に出かけてゆく。この時代、温泉旅館は世を避ける男女のひそかな逢びきの場だった。

新潮社 週刊新潮
2018年7月26日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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