「感性」を磨くと人間関係も円滑に? 住職が教える「コミュニケーションのコツ」

レビュー

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感性をみがく練習

『感性をみがく練習』

著者
名取 芳彦 [著]
出版社
幻冬舎
ISBN
9784344033016
価格
1,188円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

「感性」を磨くと人間関係も円滑に? 住職が教える「コミュニケーションのコツ」

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

感性をみがく練習』(名取芳彦著、幻冬舎)の冒頭において、著者は「感情と感性の違い」はなんだろうかと問いかけています。

部屋に花を飾る時、季節のどんな花を、どのように飾るかは感性の担当です。そこに喜怒哀楽の感情が入りこむ余地はありません。 感性(sensibility)は、哲学の世界では理性よりも下に位置づけられているようで、意志の力で克服すべきものとして扱われることが多いらしいのですが、感性は理性より下位ではなく、感性という土台の上に理性が築かれていくものなのでしょう。ですから、感性という基礎をしっかり作っておくことが大切なのです。(「はじめに」より)

道端に咲く花を見て「根っこがあるから咲いている」と気づき、そこから「私も人生に綺麗な花を咲かせるために、人として根を張っておこう」と思うことができれば、自分を支える心の杖は太く、しなやかになっていくもの。

橋を見たとき「こちら側から向こう側へ人や車を渡している。“橋渡し”とはこのことだ」と気づき、「では、私はなにかを、どこかへ橋渡ししているだろうか」と考えれば、「自分もなにかの役に立とう」とか、あるいはすでに役立っていることがわかるもの。そのため自己肯定感も高まって、充実した人生を送れるようになるというわけです。

感性は「磨く」と言われるように、感性の原石が私たちの身近にあって、磨けば光ると考えられてきました。たしかに、「感情を磨く」とは言いませんよね。そして上記で言えば、花や橋が感性の原石だということ。そして、その原石にどのような磨きをかけるかは自分次第。

本書は、私たちの周囲にあり余るほど転がっている原石を、どのように磨いていけば人生が豊かになり、心おだやかになれるかについて仏教を軸に書きすすめました。 仏教では、私たちは満月のような素晴らしい心を持っているのに、それが煩悩(心を乱す欲や見方)の雲で覆われていると考えます。 この雲を吹きとばす風が、物事の本当の姿を見抜く智恵と、他に楽を与え、他の苦しみを抜く慈悲と言われます。智恵も慈悲も、ベースになるのは周囲の人や物に対するさまざまな気づきと共感する能力、つまり感性です。(「はじめに」より)

そんな本書の第四章「人間関係をよくする感性」の中から、いくつかを抜き出してみたいと思います。

みんなから好かれる必要はない

いい大人になったにもかかわらず、いまだに「いい人になろう」と思って苦労している人がいるものだと著者は指摘しています。しかも厄介なのは、この場合の「いい人」が、「他人から見たいい人」という意味だということ。なにをするにしても「いまの言動はどう思われただろう」と気にし、ひとりになると「どう思われただろう。嫌われなかっただろうか」と不安になるというのです。

もちろん、「いい人」だと思われれば気持ちはいいものですし、嫌われることも少なくなりますから、他人と衝突する機会も減るはず。著者自身も結婚するまでは、やみくもに「いい人」を演じていた気がすると過去を振り返っています。「いい人」でないと、結婚してもらえないと思っていたのだとか。当時の著者が思い描いていた「いい人」は、みんなを楽しませ、喜ばせる人だったというのです。

ところが、実際に周囲にいる「いい人」は、人を喜ばせることよりも、人の嫌がることをしないということに重きを置いている人たちばかりだったそうです。そんななか、冗談やユーモアを撒き散らしている著者は、とてもいい人にはなれない実感したのだといいます。

またそのころ、仏教が目指しているのは「いい人」になることではなく、いつでも、どんなことがあっても心がおだやかな人(仏)であることも知ったのだそうです。そして「いい人」になろうとしていたのは、「嫌われたくない」というネガティブな感情の裏返しだということに気づいたのだと著者はいいます。

人から好かれるから「いい人」になろうとしていたのではなく、嫌われたくないという一心だったということ。いわば、とことん他人任せの人間になろうとしていたわけです。

人から好かれれば、心穏やかにいることができるでしょう。逆に嫌われれば、おだやかではいられないはず。しかし仏教は、「嫌われてもこころおだやかでいる」ことを目指すのだそうです。でも、そんなことが可能なのでしょうか?

それは、会議などで同席したメンバーが自分のことをどう思っているかを考えれば、すぐにわかります。どう思っているかは、自分のことを1.好きである。2.嫌いである。3.好きでも嫌いでもない(つまり何とも思っていない)の三種です。 全員に好かれることはありえません。控えめな人が好きな人もいれば、同じ人を消極的だと批判する人もいます。理路整然と話題を展開する人に好感を持つ人もいれば、「話し方に遊びや余裕がない」と嫌味を言う人もいるのです。そして、何とも思っていない人もいます。 これがわかれば、「まあ、私を嫌う人だっているわなぁ。それは仕方がないわい」と心おだやかでいられます。(97ページより)

「こんな生活がしたい」と夢見るのも大切ですが、もっと大切なのは「どんな人になりたいか」。みんなから好かれる人になれないのは明らかなのですから、心おだやかな人を目指してみるべきだということです。

それは、人の目を気にしなくていい生き方。あいかわらず「いい人」になろうとしている人は、自分がどれほど他人の目を気にしているかに気づいて、人生の軌道修正をしてみるといいかもしれない。著者はそう記しています。(96ページより)

期待のこもっている親切心なら持たないほうがいい

自分のためになにかをして、期待した結果が得られなかったとき、「せっかくやったのに」とがっかりするのは仕方がないこと。しかし、自分が他人のためになにかをして、期待した結果が得られなかったときは、「せっかくやってあげたのに」とがっかりしたり、愚痴や文句を言うのはやめるべき。

理由その一:相手にしてみれば「してあげた」と言うフレーズを聞いただけで、「そんな言い方をするなら、やってくれなくてもよかったのに」と言いたくなります。

理由その二:自分が勝手に「こうしてあげたら、こうなるだろう」と期待をしていただけで、相手があなたの期待に応えられるかは、別の問題です。

理由その三:あなたがやったことは親切の押し売りだったのです。慈悲は「お節介」の異称でもあります。お節介の行き過ぎをコントロールする知恵を持ち合わせていなかった我が身を反省すればいいのであって、文句や愚痴を言うのはお門違いです。(108ページより)

「お節介を承知で、私がやりたいからやっただけ。それに報いてもらおうとは思っていない」と覚悟をし、こだわりのない、爽やかな顔をして、慈悲心を発動したほうがいいという考え方です。

仏教で説く布施(施しを広げる)の語源はダーナ(音写されて旦那)。布施は条件付けをしないで何かをすることです。それは「させてもらう」ことであって、「してあげる」ことではありません。 ところが「してあげたのに」は、「してあげる」が元になっている時点で布施ではなく、さらに「こうしてあげたのだから、こうなるべき」という条件をつけているのですから、とうてい布施とは言えません。(109ページより)

仏教の布施は、いつでも、どんなことが起こっても心おだやかでいるための代表的な教えのひとつ。多くの先人たちが、こちらの期待に応えてほしいという条件づけをした上に「してあげた」と考え、結果的には心おだやかではいられなくなるという、膨大な失敗事例から導き出された教えだと言ってもいいそうです。

慈悲というお節介の心は、人の本能のようなものだと著者。使い方次第で、自分の心もおだやかになり、人助けにもなるというのです。ところが、他人に対して「~してあげたのに」という言葉が出たら、慈悲の使い方を間違えているかもしれないと疑う感性を持ってみるべき。独りよがりは要注意だということです。(108ページより)

人との距離を縮める勇気を持つ

「世の中は出しゃばらず万事控えめがいい、そのほうが他人と余計な衝突をしなくてすむから」と考える人がいます。ある意味においては、自分の都合よりも相手の都合を優先させ、「(あなたの都合を)お先にどうぞ」と言って(思って)いるわけなので、おだやかな心でいられることでしょう。

しかし、遠慮もほどほどにしておかないと、主義主張がなく頼りないと思われてしまうこともあるもの。本人は相手のことをおもんぱかって、「あなたの主張を優先させますよ」という主義のもとにやっているのですから、それはそれで頼もしいこと。しかし、それを相手にわかってもらえない場合もあるということを、知っておいたほうがいいというのです。

一つのお皿に盛られた料理の最後の一口は、俗に“遠慮のかたまり”と呼ばれます。誰かが食べたいかもしれないと全員が遠慮し合って、手を出しません。 中学生の時に、親戚の家の食事に招かれました。叔母の「最後に残った一つを食べるのは勇気がある人だよ」という言葉を鵜呑みにして、最後に一切れ残ったカラアゲを頬張って勇者になった気がしました。叔父と叔母は嬉しそうでした。 こうしたことがあったので、五十歳を過ぎるまで、勇気を見せるために最後に残った一口を食べていました。しかし、若い友人と食事をしている時に、勇者気取りで最後の小籠包をパクリと口に入れると、隣にいた家内に「あなたがご馳走するんだから、最後は遠慮して、お客さんに譲るのが礼儀でしょうに!」と怒られました。 遅まきながら、遠慮しなくてもいい時と、遠慮したほうがい時があるのを学んだのです。(114ページより)

とはいえ遠慮もほどほどにしないと、相手を信頼していることにならないという側面もあります。上記のエピソードはともかくも、過剰な遠慮をしないことが、相手の顔を建てる場合もあるということ。そういう意味では、遠慮はほどほどがいいのかもしれません。(114ページより)

以前、『1分で悟り』(ワニブックス)、『シンプルに働く』(クロスメディア・パブリッシング)をご紹介したこともあるので記憶にある方もいらっしゃると思いますが、著者は英語教師を経て、江戸川区鹿骨元結不動密蔵院住職になったという経歴の持ち主。前著にも通じるソフトなアプローチは今回も健在であるだけに、感性を磨くためのコツを無理なく身につけることができそうです。

Photo: 印南敦史

メディアジーン lifehacker
2018年7月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

メディアジーン

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