『もう「はい」としか言えない』
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奇作快作の著者が贈る悪夢のようなフランス逃避行
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
男は寂しい。本書の主人公である、個性派俳優の海馬(かいば)五郎もそうだ。寂しくて再婚し、寂しくて浮気する。それが妻にバレても、まだその寂しさを認められない。だから突然のフランス旅行に飛びつく。クレストという大金持ちの美術商に賞をやると言われた彼は、怒る妻の監視から逃れたい一心で飛行機に乗り込む。
外国語が分からない彼に同行したのは斎藤聖(ひじり)だ。フランスと日本の血を引き、女性のような美貌を持つ彼は、心を病んで田舎で農業をしている。聖にも目的があった。離婚後フランスに留まった母に再会することだ。だが授賞式はなかなか行われない。ようやく当日になると、海馬はバラエティー番組よろしく目と耳をふさがれ、何時間も車に揺られるはめになる。
『同姓同名小説』など、奇作怪作で知られる松尾だが、本作も読者の期待を裏切らない。なにより魅力的なのは聖だ。ちょっとした冗談にも驚くほど傷つき、ナイフとフォークを使ってアップルパイの中身と皮を別々に食べ、エコノミー席の狭さに過呼吸になる彼は、日本の基準ではイタいやつだ。
だが、フランスに着いたとたん、海馬との形勢は逆転する。ゆとりある大人だったはずの海馬が何もできない一方、聖は次々と人に出会いながら、正直さを武器に成長していく。日本の男なんて、システムに守られて威張っているだけだ。外国ですべてを剥ぎ取られた海馬は、聖の持つ力に気づく。そのきっかけがワイルドすぎる移民街だ。
物乞いや警官がうろつく中で、クレスト社が建設した「前衛芸術の上に勝手に干されたエスニックな絨毯や飲食店のダスター、使途不明のアルミの盆などの、生活が芸術に侵蝕しているありさま」。一人で迷いこみ、この剥き出しぶりに触れた海馬は大きな衝撃をうける。
聖のように、自分も正直で柔らかい心を取り戻して、再び人を愛せるだろうか。本作の問いは深い。