40年余のサル学人生を振り返る

レビュー

4
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

40年余のサル学人生を振り返る

[レビュアー] 稲垣真澄(評論家)

 著名なサル学者である著者とアイとの関係は1977年、当時1歳だった彼女が初めて京大霊長類研究所にやってきた時以来だから、すでに40年以上。そう、今や白髪も散見される女性のチンパンジー、それがアイである(本書ではこのようにゴリラやチンパンジーを「女性」「男性」「1人」「2人」などと呼ぶが、最初こそ戸惑うものの、慣れるに従い奇妙に心地よくなってくる)。

 人間とチンパンジーとは、ゲノム(全遺伝情報)の98・8%を共有する。共通祖先から分かれ、互いの道を歩み始めたのがわずか500万~700万年前だからだ。だから心や行動で共通するものがあれば、それは共通祖先に由来し、異なるものは分離後に独自に進化した、と一応考えることができる。そうした前提でチンパンジーの心を知るべく(そして人間の心をより広い視野で捉えるべく)始まったのが「アイ・プロジェクト」。新聞などで報じられた成果も少なくない。

 たとえばモニター画面に1から9までの数字をランダムに表示し、小から大へと順にタッチさせる実験。1にタッチした瞬間、2以下が消え白マスに変わるように設定しても、チンパンジーは決して間違えない。この瞬間記憶能力はとうてい人間の及ぶところではない。人間中心的常識をくつがえすところがあり、欧米で盛んに追試がなされた。

 これと対になるのが「お絵かきテスト」などだ。チンパンジーと人間の子どもに目鼻の欠けた顔の線画を見せ、筆記具を与える。人間の子どもは「おめめがないよ」などといって、欠けた目鼻をすぐに描き加える。ところがチンパンジーは、すでにある描線をなぞるだけで、決して描き加えない。人間はあらかじめ全体像を思い浮かべ、そこに「ない」ものを「ある」かのごとくイメージし、それを他者に伝えようとする。

 この「ない」ものを「ある」かのごとくイメージ(表象)し、それを他者に伝える能力こそ、言語、芸術、宗教……などの人間文化を基礎づけるものだが、それと先ほどの瞬間記憶能力とはちょうどトレードオフの関係にあるという。つまり森を出た人間は、森にとどまるチンパンジーに比べ多様な環境を生きなければならず、そのためには目の前に「ない」ものまで情報処理し、仲間と共有できれば生存上、大いに有利。その有利さを手にするために人間は、共通祖先が持っていたはずの瞬間記憶能力を断念、トレードオフしたというのだ。

 著者の研究対象は、決して飼育下のチンパンジーだけではない。ギニアのボッソウでの野生チンパンジー観察。石や種などを置いて石器使用の様子を見る「野外実験」という手法の開発でも有名だ。本書は13章構成で、40年余のサル学人生を振り返る。まさに一読三嘆!

新潮社 新潮45
2018年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加