『骨を弔う』
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ありふれた奇跡
[レビュアー] 宇佐美まこと(作家)
スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』は、今も何度も読み返す私の大好きな小説である。思春期にさしかかった少年たちが、森の奥に死体探しの旅に出る話。旅を通じて、彼らの置かれている過酷な背景が明らかになるが、それにもめげず、力強く生きている姿も写しとられている。
少年の成長譚、冒険譚は、この他にも多くある。それが私にはうらやましくて仕方がなかった。冒険は、単純で向こう見ずで自由気ままな少年たちだけに与えられた特権なのだろうか? いや、そうではない。『骨を弔う』の中で、私は少女にもその特権を行使させたかった。
登場するのは、小学生の少女二人、少年三人。リーダー格は佐藤真実子という十一歳の女の子で、あとの四人(特に男の子)を顎で使うような傲岸不遜な子である。
本ばかり読んで頭でっかちで、皮肉屋の真実子は、私の少女時代の姿を多分に投影している。それから、五人が生まれ育った田舎町が、スポーツ公園になってすっかり姿を変えてしまうという設定も、私が実際に経験したことだ。少女が中心の冒険譚を書きたいという思いと相まって、『骨を弔う』は、私の強い思い入れが作り上げた物語だといえる。
ただし、これは清々しく朗らかな成長物語ではない。少年少女たちは、二十九年の時を経て中年の男女になっている。かつて真実子がいけ好かない担任教師を困らせるために、理科室から盗み出した骨格標本を山の中に埋めにいった小さな冒険のことなど、記憶の隅に追いやっている。それぞれが今、立ち向かうべき問題や事情を抱えて手いっぱいなのだ。
そんな時、故郷の町を流れる河川の堤防から、骨格標本が露出する。大人になった本多豊は、これがあの時、自分たちが埋めたと思っていた標本なのではないかと疑う。ではあの時、山の奥に埋めたものは何だったのだろう。彼は真相を知るために、幼馴染たちを訪ね歩く。
喜んでその謎を解こうとする者はいない。誰もが豊の訪問を疎ましく思う。なぜ彼がこんなつまらない事柄にこだわるのか訝しがったり、腹を立てたり、反応は様々だ。しかも当の真実子は行方が知れない。困惑しつつも彼らは、豊が持ち込んだ子供時代の残骸に絡めとられていく。
大人になるまでに、人はどれほどのものを捨て去り、また背負い込むのだろう。そうなった時に、たいていの大人は、自分がかつて自由闊達で想像力豊かで、家族から大切にされる「子供」という特別な存在であったことを忘れてしまう。たくさんのことを知ること、経験することは、成長には違いないが、哀しいことでもあるという事実から目を背けて生きている。なぜなら、私たちはひとつところに留まることができないからだ。
懐かしい町は変貌を遂げて、住人たちはよそへ行くことを余儀なくされ、子供たちはその輝かしい位置から成長することを強いられる。
流されるままに生きている大人がふと足を止め、過去を振り返った時、そこにはどんな風景が見えるのだろう。日本各地に散らばったかつての少年少女たちが集結し、二十九年前に埋めたものを掘り出す時、彼らは何を手にするのだろう。それは失った自分自身を取り戻す旅ではないか。いなくなった真実子に引き寄せられるように、中年男女が再び山へと向かう。
奇跡はとんでもない出来事ではなくて、平凡な暮らしのあちこちにちりばめられている。大人になり、現実に押しつぶされそうになっても、小さな奇跡に気づいた者は、それを生きる力に変えることができる。
『骨を弔う』の中で息を切らして山道を登る子供も、明かされた謎の前に立ちすくみ、小さな光に手を伸ばそうとする大人も、私自身の姿だ。そして、もしかしたらあなた自身かもしれない。