悪玉は何を「もらう」のか?

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悪玉伝

『悪玉伝』

著者
朝井 まかて [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041069196
発売日
2018/07/27
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

悪玉は何を「もらう」のか?――【書評】『悪玉伝』酒井順子

[レビュアー] 酒井順子(エッセイスト)

 東京に生まれ育った私が関西の人と話していると、贈答という行為に対する彼我の意識の違いに、驚くことがあります。たとえば、結婚式の場合。東京であれば、披露宴会場の受付で熨斗袋を渡して最後に引き出物をいただくという感じですが、関西では事前の吉日の午前中にお宅を訪問して直接、お祝いを渡す。受け取った側はすぐにその金額を確認し、一割の現金と懐紙等を返すのだそうで、そのお返しを「おため」と言う。

 ……といった話を聞いた時は、「そんな習慣、初めて聞いた」と、驚いたものです。冠婚葬祭など特別な時のみならず、普段の生活においても、関西の人達の贈答意識は、我々東京人よりもはるかに高いと言えましょう。何かをもらったら、その物の価値を素早く計算、可及的速やかに同等のものを返す、といった感覚が浸透しており、贈答能力がコミュニケーション能力と密接に関係している。

 贈答に関するルールはとてもややこしく、そのややこしさが面倒だから、東京ではうんと簡略化されたのだと思います。が、「面倒」から生まれた贈答文化のようなものが、関西には確実に存在するのではないか。

『悪玉伝』では、この贈答意識の東西格差が、物語における一つの鍵となっています。大坂の薪問屋・辰巳屋の主人である久佐衛門が亡くなったことが、事の発端。久佐衛門の実弟で、他家に養子に出ていた吉兵衛と、久佐衛門の娘の婚約者として辰巳屋に入っていた乙之助とが、相続を巡って泥沼のバトルを繰り広げるのです。

 吉兵衛は、芝居や学問が大好きな洒落者。根っからの都会人であり、武張ったところは一切ありません。歌舞伎で言えば、ちょっと押しただけで転びそうな「つっころばし」といったところか。

 しかし吉兵衛は、単なる柔弱な男ではありません。大坂の奉行所ではいったん吉兵衛の相続が認められたものの、大きな商家である乙之助の実家が駆使する寝技によって、事件は江戸で裁かれることに。徳川吉宗や大岡越前守まで登場して吉兵衛は一気にピンチに陥るのですが、彼はそこでへこたれないのです。

 吉兵衛は、物理的な「力」は持っていません。が、江戸の公権力と相対するにあたり、あらゆる難局を、コミュニケーション能力で乗り越えようとします。人好きがする、自らの性質。放蕩の限りを尽くしてきたからこその、人脈。そして、大坂で鍛えられた贈答能力。それらを総動員して、権力及びそれと結びついた金の力と戦うのでした。

 そこには、誤算もありました。大坂の都会人である吉兵衛にとっては「お世話になるからこその、ご挨拶」という感覚で役人達に贈ったものも、江戸では贈収賄と受け止められることに。彼は自らの能力によって、自らの首を絞めることにもなるのです。

 読者は、一番の悪玉は誰なのかを考えながら、この本を読むことでしょう。悪いと思って悪事を働く人ばかりが「悪玉」ではない。自分のしていることが悪いなどとは微塵も思わない人の方が、実はよっぽど始末が悪いこともある。また、ある人にとっては「悪」でなくとも、違う立場から見たら立派な「悪」。

 一筋縄ではいかない悪玉達が、武力を使わずに相手をくじこうとする様は、スリリングです。そんな中でも、誰かに何かを「あげる」という行為の意味の深さに、私は改めて驚かされました。一瞬であっても人生を交錯させ、良くも悪くも相手との関係性を深めるのが、贈&答のやりとり。最後に大きなものを「もらう」ことになるのは、誰なのか……。

 諸刃の剣ともなる贈答という行為を自在に操る人々がひしめいていた、江戸時代の大坂。その子孫達が今なお高い贈答能力を持ち続けているのも当然と、この物語を読んで私は思いました。そして大阪人への贈り物に何を選んだらいいのか、東京人の悩みはますます深まっていくことになるのです。

KADOKAWA 本の旅人
2018年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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