型破りな人生の記録

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実証史学への道

『実証史学への道』

著者
秦郁彦 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784120050992
発売日
2018/07/19
価格
2,268円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

型破りな人生の記録

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 なんとも型破りな人生の記録である。東大法学部を出て大蔵省に入ったエリート官僚とは思えない、好奇心まかせのズッコケ人生である。「朝まで生テレビ」などでおなじみの歴史家・秦郁彦は慰安婦とか南京といった刺激的なテーマでの発言が目立つが、根っからの調べ魔の昭和史家であり、この分野でのインディーズの開拓者であった。

 そもそもからしてユニークである。駒場の学生だった時に一年間休学してやったことは、巣鴨プリズンに収容されているA級戦犯などを訪問して、ヒヤリングをすることだった。面会が自由なのを利用して、無聊をかこつ元軍人たちに質問をぶつける。知りたいことは、「東京裁判で被告や関係者が隠し通した」史実である。東京裁判結審後に、判決の不備や空白を調べ、一人でこつこつ歴史法廷の検事と弁護士と判事を兼ねていたのだ。

 官僚的軍人の鈴木貞一からは週末に世田谷の大邸宅に招かれる。懲りない橋本欣五郎からは「おう、君も革命をやらんか」とハッパをかけられる。荒木貞夫は陸軍大臣時代と変わらず、喋り出すと話が止まらずに、とっ散らかっていて苦労させられる。司法取引に応じて検事側の証人となり被告たちを告発した田中隆吉は、ノイローゼ気味になっていた。昼なお暗い部屋で「武藤の亡霊が出てくる」と口走る。絞首刑になった武藤章は田中のライバルであった。そんな田中からは東京裁判では口を鎖していた上海事変の謀略の詳細を聞き出している。ヒヤリングの成果は本書の後半に「ノート」として収録されていて、昭和史の数々の新事実を最初に引き出したのが、ヘンな東大生だったとわかる。

 秦は大蔵省入りが決まって卒業までの空いた時間を利用して、自らの成果をまとめている。河出書房の雑誌『別冊知性5号 秘められた昭和史』である。田中隆吉「上海事変はこうして起された」はこの時、活字になった。満洲事変の謀略を初証言した花谷正の原稿は秦が七回も通って聞き出して、記事にまとめた「スクープ」である。この雑誌を私は古本屋で探して入手していたが、あらためて目次の豪華さにびっくりする。東大生の秦がほとんど一人で企画し、原稿依頼し、記事を書いていると知るとなおさらだ。ところが、秦の署名があるのは「悲劇の昭和史」という巻末五ページの小さな解説記事だけなのである。

 大蔵省初登庁の日、秦は缶詰めになっていた出版社の車で乗り込んだ。そんなお役人でも二十年勤まったというのは、慶賀すべきことだろう。暇なところへというので経済企画庁に出向する。仕事をしなかったわけではないようで、沖縄返還にあたり、米軍が沖縄に投資した施設の買い取りの査定をしたり、日中国交回復に備え、中国側から請求されそうな賠償金を見積もったりと、昭和史をお金に換算するような仕事もしている。周恩来は賠償請求をしないという善意を見せたが、秦によると、「タダほど高いものはない」のことわざ通りで、「三兆円の対中ODA(政府開発援助)の総額は、私の予想した賠償額とほぼ同額」であった。防衛庁出向では、こまめに自衛隊基地を廻り、F104ジェット戦闘機での音速超えも体験している。元大蔵省の先輩・三島由紀夫の試乗体験よりも早かったようであるから、これは秦の軍事おたく心を満足させたであろう。

 秦は大蔵省時代にも昭和史研究に関わっている。日本国際政治学会の大型プロジェクト『太平洋戦争への道』では二十代で最年少の筆者となり、大蔵省の仕事としても占領期の戦後財政史編纂の主幹になった。この時には長岡実秘書課長(三島と同期入省で、後に事務次官)から主計局に行くか、財政史編纂にするかと聞かれ、花形の主計局を断っている。

 秦との組み合わせで意外なのは丸山眞男という存在である。秦は入省八年目にハーバードに留学するが、それには丸山の推薦が決定的役割を果たした。秦は東大に入ってすぐ、丸山から一対一の個人教育を受けた。当時の丸山はとびきりの知的偶像だが、物怖じしない性格の秦は、丸山親衛隊の先輩たちの白眼視も何のその、西荻窪の家を訪問した。丸山は「十八歳の少年に対し、対等に相手をしてくれた」。「私が臆面もなくつっかかると、丸山さんも正面から反論するんですよね。そういう先生というのは、他に会ったことがない」。思想史の領域では丸山にかなわないと悟り、秦は一般の歴史に切り替えた。その事実を知ると、秦の仕事には丸山の東京裁判研究といえる論文「軍国支配者の精神形態」(『現代政治の思想と行動』所収)の影響が強くあると推察できる。丸山の研究が拠った東京裁判の膨大な「速記録」でも解き明かせない歴史の疑問点をヒヤリングで補い、ナマの元軍人たちに接し、突き止めていったのだろう。満洲事変の発火点となった柳条湖事件の全貌を明らかにするのに三十年かかったとサラリと言うが、その執念は並大抵のものではない。

 満洲事変の首謀者だった石原莞爾と、対米戦争の主戦派だった田中新一、この二人がA級戦犯の被告席に座るべきだったと秦は言っている。いつものソフトな語り口の中では、その部分は突出していると感じられる。そこには珍しく、秦の戦争体験の痕跡がうかがえるのではないだろうか。秦は昭和十八年から一年間広島に住み、「毎朝、今の原爆ドームの横を通り」ジョギングしていた。広島から山口県防府に引っ越したのは終戦の一年前である。鉄道マンの父がフィリッピンのルソン島で自決したのは、終戦の一ヵ月前であった。

新潮社 新潮45
2018年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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