『寝ても覚めても』
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「愛する」が始まるとき──『寝ても覚めても』特別対談
[文] 河出書房新社
ラタトゥイユとカレー、その違い
東出 カンヌで「ラタトゥイユとカレーを間違えるっていうシーンは、『似て非なるもの』という、亮平と麦の比喩になっているのか」と言われて。
柴崎 それは面白いですね。
東出 そうしたら監督が「いや、そういうわけじゃないです。あれは実体験です」と言ってて(笑)。
柴崎 あのシーンを見ていて、これは朝子が作った料理が微妙なのか亮平の味覚がずれてるのか、どっちなんだろうと思って。
東出 いや、あれは絶妙なものを美術部さんが用意してくれて、これはカレーなのかっていう味だったんです。ターメリックが効いてたらカレーだってわかるけど、ターメリックの雰囲気もするし、みたいな。
柴崎 カレーと言われればカレーだし、ラタトゥイユと言われればラタトゥイユかな?みたいな。もしかしたら映画と原作も、あのシーンのカレーとラタトゥイユの違いに似ているのかもしれません。登場人物の性格もけっこう違うけど、同じなにかはある。
東出 あると言えばあるし、似てると言えば似てますものね。
柴崎 実はそれはすごく鋭いコメントだったのかもしれません。濱口さんも「原作の大事な部分みたいなものは映画の中に残せたと思います」とコメントされていましたけど、わたしもそこはあると思って、でも映画として違うものでもあって。
原作者と映画というのは不思議な関係で、映画はやっぱり私のものではないけど、でも自分の小説がなければできなかったもので、そこで原作者は映画に対してどの場所にいるものなのだろうって今回はとても考えましたね。答えがあるわけではないですし、人によっても違うし、作品ごとにも違うと思うんですけど。現場を見に行ったりしてるともともとは自分の頭の中で生まれてきたストーリーなのにいつのまにかいろんな人が関わって、実際にああでもないこうでもないと目の前でやっていて、そのことに対して自分がどの位置にいるのかというのはとても難しくて面白くて奇妙なものです。
東出 おっしゃるように役者も、今思い返してみると、自分でああやろう、こうやろう、と工夫を凝らして考えてきたものをやって、「あの役良かったね」とか「あの役どうなの」とか言われるよりも、現場で起きたことに正直に反応する以外は余計なことをやらないといったことを経験できたのも、役者として成長できるきっかけだったような気がします。全部撮り終わったけど、ある意味では僕のお芝居は、もうどう評価されてもどっちでもいいやと思ってる部分があって。そうやってポーンと自分から今回投げられるというのは、それまではどこかで映画は監督のものと言いつつ、自分というものに固執していた部分があったから悩んでいたのかもしれません。終わってみると、僕はこの映画に関しては責任を問われても、何とも思わない。これだけ開き直れるって、役者としては幸せなことなのかなって思います。