鎮魂の物語──町田康『ギケイキ(2) 奈落への飛翔』

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ギケイキ②

『ギケイキ②』

著者
町田 康 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309027074
発売日
2018/07/20
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

鎮魂の物語

[レビュアー] 呉座勇一(歴史学者)

 判官贔屓、という言葉がある。弱者、敗者に必要以上に同情を寄せ感情移入する人間心理を指す。周知のように、この言葉の由来は、我らが九郎判官、すなわち源義経にある。義経は検非違使左衛門尉に任官しており、尉のことを判官というからである。
 判官贔屓という言葉が生まれるほど、日本人は義経を愛してきた。それは、彼が平氏を滅ぼすという輝かしい軍功を挙げたにもかかわらず、兄頼朝との対立の末に哀れな末路をたどった悲劇の英雄であるからに他ならない。日本の長い歴史の中でも、これほど栄光と没落のコントラストが激しい人物は義経以外に見当たらない(拙著『陰謀の日本中世史』)。
 ところが、源平合戦に颯爽と登場する以前、義経がどのような幼年期・青年期を送ったかはほとんど分からない。そして頼朝と対立して失脚した後、どのようにして奥州まで落ち延びたのかも判然としない。当然、人びとはヒーロー義経の生い立ちや逃避行について詳しく知りたい。芸能人のデビュー前の生活や「あの人は今」が私たちの興味を惹くのと同じである。そうした大衆の欲求に応える形で次々と生み出された無数の伝説をまとめあげた義経の一代記が、室町時代に成立したとされる『義経記』である。
 この古典を驚くべき豪腕で現代に転生させたのが町田康の『ギケイキ』である。今のところ作中で明確には記されていないが、どうやら衣川で自刃した義経が現代に転生し、自分の前世を振り返っているという設定のようだ。いわば回顧談である。この奇抜な語り口が前作『ギケイキ 千年の流転』で示された時、町田康の独特の文体を最大限に活かす絶妙な手法として話題を呼んだ。
 さて前作は、源頼朝の挙兵を知った源義経が奥州を出発し、頼朝に合流すべく疾走するシーンで終わった。ということは『ギケイキ2』はいよいよ平家との激闘が始まるのだな、と思っていた方は本作を読んで肩すかしを食らうかもしれない。源平合戦はバッサリとはしょられているからである。
 実は、『義経記』は源義経の源平合戦での活躍にほとんど言及していない。同書の関心は、『平家物語』で描かれなかった義経の不遇な生い立ちと悲哀に満ちた末路にあった。同書を下敷きとした本作でも、義経は「知りたい人は平家物語とか読めばよい。虚実取り混ぜておもしろおかしく書いてある。大河ドラマとかにもなっているし」と語っている。
 源義経の武将としての勇姿を描かない『義経記』は、弱者・敗者を哀れむ色彩が強く、まさに「判官贔屓」の物語になっている。黄瀬川での兄頼朝との涙の対面が終わったと思うや否や、頼朝に対面を拒絶され「腰越状」を書く場面へと移行することで同書は義経の悲劇を際立たせている。以後、同書は義経の没落を、哀感を込めて叙述していくのである。
 もちろん本作も〈源平合戦省略〉という大胆な構成を効果的に利用している。しかも、一度死んだからか、義経の語りは妙にあっけらかんとしていて、彼の鋭いツッコミの数々は読者の笑いを誘う。だが軽妙な語り口は彼が心の奥底に沈めた深い悲しみをかえって浮かび上がらせている。この点で本作が、単なる『義経記』の「超訳」でないことは明らかであある。
 前作で源義経は早業という超高速移動を身につけ、中国の兵法書『六韜』を会得した。これにより義経は最強無敵の武士になったはずだが、本作で義経がその超人的能力を披露する機会はほとんど見られない。代わりに、弁慶をはじめとする義経の個性的な郎等たちが主君の危機を救うべく躍動する。『西遊記』における三蔵法師と孫悟空らお供との関係を想起すると分かりやすいだろうか。
 この一見不思議な構成も、原典である『義経記』を踏襲している。なぜ『義経記』は義経を無力な存在として描いたのか。それは、国文学研究で指摘されているように、同書が古典文学の王道である貴種流離譚を意識したからだろう。『平家物語』で背が低く出っ歯と評された義経が『義経記』ではたぐいまれな美男子として表現されているのも、このためである。なよなよした貴公子である主君を守るため、弁慶ら郎等は超人的な武勇を発揮していく。
 しかしながら、主人公の影が薄く脇役たちばかりが暴れ回る『義経記』後半の構成は、古典のお約束と馴染みのない現代人に強い違和感をもたらす。そこで町田康は『ギケイキ』を書くにあたって、この違和感を解消するための工夫を迫られた。それが源義経による一人称の語りという卓抜な設定だったのではないか。義経が語り手であれば、義経自身が活躍しなくても義経の存在感は消えない。義経の目を通して郎等たちの活躍を見るのであれば、郎等の方が義経より目立っていても不自然ではない。
 けれども、〈現代に転生した源義経が郎等たちの活躍を語る〉という仕掛けには、より深い意味があるように思われる。物語がまだ完結していないので断定はできないが、おそらく現代に転生できたのは義経だけだろう。ご存じのように、弁慶たち郎等は、みな義経を救うために命を捨てた。一人転生できた義経は、何を思うだろうか。自責の念、郎等たちへの感謝の念であろう。そして義経が彼らに報いる方法は一つしかない。彼らの武勇と忠義を人びとに語ることである。それが彼らの鎮魂につながる。そのことに思い至った時、涙が止まらなかった。

河出書房新社 文藝
2018年秋号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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