『市場って何だろう』 松井彰彦著

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市場って何だろう

『市場って何だろう』

著者
松井 彰彦 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
社会科学/経済・財政・統計
ISBN
9784480683243
発売日
2018/07/05
価格
886円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『市場って何だろう』 松井彰彦著

[レビュアー] 坂井豊貴(経済学者・慶応大教授)

市場原理の善きかたち

 基本的に、市場というのは自分で意思決定して、取引をするところだ。そこで一般に想定されているのは、自立した個人である。だが著者は、市場こそが個人を自立させるのだという。精神論ではない。市場は個人に、多くの依存先を与えることで、自立を可能とさせるのだという。

 依存先が一つだけだと隷従した状態になりやすい。たとえば取引先が一つだけだと、不利な条件を拒否しにくい。いまの勤務先がブラックでも、他に転職先がなければ、辞める決断がしにくい。複数の取引先があること、他の選択肢があること。市場を上手(うま)く使うと「複数の依存先」が用意できる。それにより人は依存的状況を脱し、自立を獲得する。

 むろん、その阻害要因は多々ある。統計的差別はそのひとつだ。たとえば、これまでの女性の離職率が高いからという理由で、男性が優先して採用される。あるマイノリティー属性をもつ人の働きぶりが平均的に悪かったから、そのマイノリティーはもう採用しない。その結果、女性や、そのマイノリティー属性をもつ人は、職を得る意欲や、自己投資の意欲が減退してしまう。統計的差別それ自体が、差別の根拠を生みだしているのだ。このとき市場は人に上手く自立を与えられない。

 著者は「世界は心によって作られる」との仏陀の言葉を引く。複数の人間の心の作用の結果として、ある社会の状態が生まれる。差別や障害も、物理的な状態ではなく、社会の状態である。たとえば車椅子利用者にとって、東京の電車通勤は非常に難しい。だがこの場合、障害なのは、不自由な足ではなく、混雑という社会の状態ではないのか。そのように考える著者は、自身の大学の研究室で、三人の車椅子利用者を雇用しているという。在宅勤務でデータ処理などを任せているそうだ。

 本書はいわゆる市場原理主義の著作ではない。だが読者は本書のなかに、市場原理のもっとも善きかたちを見つけることができるだろう。

 ◇まつい・あきひこ=1962年生まれ。東京大教授。専門はゲーム理論。著書に『慣習と規範の経済学』など。

 ちくまプリマー新書 820円

読売新聞
2018年8月19日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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