『ある世捨て人の物語』 マイケル・フィンケル著

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ある世捨て人の物語

『ある世捨て人の物語』

著者
マイケル・フィンケル [著]/宇丹 貴代実 [訳]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/外国文学、その他
ISBN
9784309207452
発売日
2018/07/12
価格
1,998円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『ある世捨て人の物語』 マイケル・フィンケル著

[レビュアー] 服部文祥(登山家・作家)

ただ一人でいたい

 会話はもちろん、家族や他人とまったく関わることなく、孤独な時間を連続でどのくらい過ごしたことがあるだろうか。私は単独行を好んでおこなうが、登山中に誰にも会わない連続した時間はせいぜい10日ほどしか経験したことがない。本書は27年間、誰とも関わらず生きていた男のノンフィクションである。

 アメリカ東海岸最北部、メイン州の森に隠遁(いんとん)した27年間を、本人が特に語りたいと思っていないところが興味深い。山奥深く隠れていたのではなく、別荘地の森に、うまくひと目を避けられる地形を見つけたのが、隠遁者クリスにとっては幸運だった。周辺の別荘を注意深く観察し、二週間に一回ほどの割合で、無人の別荘や施設に侵入し、食糧や燃料、生活雑貨や書籍などを盗んで暮らし続けた。

 被害届が出され、空き巣は謎の隠遁者として地域の噂(うわさ)になる。だがクリスは他人に見つからないように注意深く窃盗を続けた。加齢により身体能力が下がり出した頃、行きつけのキャンプ施設の食堂にハイテク監視機器が設置され、お縄となった。クリスの存在とその生活は、アメリカで大きな話題になった。面会や取材、支援の申し出が殺到する中、控えめな手紙で根気よくアプローチした著者だけが、短い面会とハガキ程度の交流をするようになる。

 クリスは、記録もつけず、暦も気にせず、ただ盗み、生活した。ソロクライマーや隠遁する思想家は、自意識や目的意識がある。だがクリスに欲はなく、孤独の生活で到達したのは、過去も未来もなく、永遠の現在にただ存在する、悟りのような境地だった。理解されたいとか、主張したいという欲望は皆無。ただそこにひとりでいたい、それだけ。

 社会的なアイデンティティを持ち、経済活動に参加して、勤勉に、些細(ささい)な夢を持って生きるのが本当に幸せなのか、揺さぶられる。宇丹貴代実訳。

 ◇Michael Finkel=米国在住のジャーナリスト。『ナショナルジオグラフィック』など各誌に寄稿。

 河出書房新社 1850円

読売新聞
2018年8月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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