黒柳徹子・特別寄稿「老人ホームの話」――夏木陽介さんへの追想エッセイ

エッセイ

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河童 或阿呆の一生

『河童 或阿呆の一生』

著者
芥川 竜之介 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784101025063

書籍情報:openBD

老人ホームの話

[レビュアー] 黒柳徹子

みんなで同じ老人ホームに入る約束をしていたのに――。
今年一月に亡くなった夏木陽介さんへの追想エッセイ。

 *

 この間、俳優の夏木陽介さんが亡くなって、お別れ会があった。私は仕事で出席できなかったけど、特別の思いがあった。

 私は若い時から、目標を立てて生きていく、という人間ではなかった。ところが老人ホームだけは、どういう訳か、いつも頭にあった。そんなことで、芸能人になって、ドラマに出始めた頃、いつも一緒になる山岡久乃さんと池内淳子さんと、老人ホームの話をしているうちに、とうとう三人で、一緒に入ろう、という事に決まった。

 だいたい、しっかりしてお姉さんタイプの山岡さんが音頭をとったと思うけど、「わかった! 三人で入りましょう、うまくいくと思う。で、入ったら、私がご飯つくります。あなたたちには、まかせられないと思うからね。特に、池内さんは、見かけと違って、ダメだから。お味噌汁のコマーシャルやってるけど、いかにも、お味噌汁なんか上手に作れそうに、お盆にお椀のせて、どうぞ、なんてやってるけど、本当は、朝、お味噌汁が出来てないと機嫌が悪い人なんだから!」といった。それからつづけて、

「私はご飯の他に洗濯もやります。電気洗濯機がこわれたら、私、直せる腕前あるからね」

 私はただ感心して山岡さんを見ていた。「私達は何やるの?」と私が恐る恐る聞くと、山岡さんは、あのキリッとした顔をほころばせて「もう決めたから。池内さん、あなたは、私達をなごませる役。あなたは、おっとりしているから、私達をなごませるのよ。チャック!(山岡さんは私がデビューした頃の仇名を、ずっと使っていた。これは、私がNHKの放送劇団に入る試験で朗読した芥川龍之介の「河童(かっぱ)」という小説に、チャックという河童がいて、いつも歩きながら、チャック、チャック、チャック、チャック、と言ってたのが、いつか私の仇名になっていた。でも、いつの間にか、呼ばれなくもなっていたが、山岡さんは、気が短いからいつも「チャック!」と私を呼んだ。たしかに「黒柳さん」というのは時間がかかる)あなたは、私達を楽しませる役。笑わせたりね。老人ホームに入って、憂鬱になっても、あなたがいれば大丈夫だからね。わかった?」

「いつも笑わせてるのって難しいと思うけど」

「いいのよ、あなたがいれば、笑えるんだから!」と山岡さんは、決め込んでいた。でも、私も池内さんも、ご飯と、お洗濯は山岡さんがやってくれると、いったので、安心して「掃除くらいは、私達できるものね」と小声でいいあって、私たちの老人ホーム暮らしの設計は出来た。

 これが、まだ30歳くらいのときだから、私達は、随分前に、プランをたてた事になる。でも実際は、仕事が忙しく、それぞれ別の仕事も多くなり、なかなか老人ホームの話をじっくり相談するのは、難しかった。でも、逢えば、「ねえ、老人ホームだけど……」と、いろいろ話し合ってはいた。

 そうこうして私が35歳くらいのとき、夏木陽介さんと仕事が一緒になった。私が、ふと、山岡さんと池内さんと、一緒の老人ホームに入る予定だというと、夏木さんが「僕も入れてくれないかなー」といった。「えっ」と私は、びっくりした。さっそうとして、いかにもジェントルマンの夏木さんが、老人ホームに入ってもいいと考えてるのかと思ったからだった。

「そうねえー、みんなに相談してみるけど、男の人が一緒って、どんなものかしらね」私がいうと、夏木さんは、熱心にこういった。「入れてよ。僕はね、棚も作れるし、車の運転も出来るから」「わかった、いいみたい。相談してみる」

 それから、私は次に池内さんに会ったとき、早速報告した。「ねえ、夏木さんも老人ホームに一緒に入りたいって。棚もつくれるって!」池内さんは、まじめな顔で言った。「老人ホームって、もともと棚なんて、あるんじゃないの?」「でも、車の運転も出来るって」池内さんは少し考えて言った。「そうね、使いっぱしりには、いいかも」

 のんびりドライブに行くことを考えていた私は池内さんの、この一言で、夏木さんは、さそえないかな、と心ひそかに考えた。

 そうこうしているうちに、山岡久乃さんが病気になって、入院する事になった。山岡さんは、誰にもヒミツで入院するので、他言無用といってから、私に「あなたはお見舞いに来ないでよ。変装したって、あなたってわかって、私が入っている事、わかっちゃうから。池内さんは、結構目立たないから、たまにはいいけど」「お姉ちゃん!(私は山岡さんを、いつもこう呼んでいた)じゃ、私いかないから、早く治ってね」「もちろんよ」山岡さんは、はっきりと、うけあってくれた。

 その山岡さんが、誰も信じられないくらい、入院して少したって亡くなってしまった。山岡さんの御姉妹と会ったあの夜の悲しさは、忘れられない。誰もが、信じられない思いだった。お姉様は、私に山岡さんの着物を記念にと下さった。山岡さんらしい、きりっとした薄茶色のつむぎの着物だった。

 私は池内さんと相談した。「老人ホームの事だけど、山岡さんいなくなっちゃうと、私たちご飯作るのどうする?」池内さんは、あの、やわらかい美しい顔をくもらせて「そうねえ、私たち二人じゃねえ」といった。それでも私は、逢う度に「ねえ、老人ホーム、入るのよね」といい、池内さんも「そうね、考えなくちゃね」といった。そして、考えてもいないことに、10年くらいたった頃、池内さんも突然、亡くなってしまった。あのときほど、茫然として、落ち込んだことはなかった。「私、やせてるように思われてるけど、本当は骨太よ。ほら!」と腕を私にさわらせて、たしかに私より、数段がっちりした腕をしてた池内さん。しばらく、仕事も手につかなかった。悲しかった。そんなとき、夏木さんに逢った。私は、また涙が出そうになった。

「あの二人がいなくなって、私と夏木さんと二人で老人ホームに入るのもね」夏木さんも「そうだね」といった。その後、パリ-ダカールに出る元気な方だったのに、最近、夏木さんも亡くなってしまった。口約束にしても一時は本当に「一緒に老人ホームに入りましょう」といった人達が、みんないってしまった。とびきり元気だった人達だったのに。

 山岡さんの、さっそうとした歩きかた。池内さんの、おだやかな笑いかた。夏木さんの恰好のいい、たたずまい。なにもかもがなつかしい。

 これからの私の人生、老後という気もないけれどどうなるのだろう。いまは元気に仕事しているけど、老人ホームには入るのだろうか。どんな人生も選べた若い頃が、ふっと、うらやましい気がしている。

 最も仲が良かったNHKに入った頃からの親友、野際陽子さんが亡くなったことも、私の心を痛めている。「若い季節」の頃、「私! 百歳まで生きる!」と叫(さけ)んでいた私に、小沢昭一さんが「それはいいけど、寂しいよ。ねえ!っていったって、もう、まわりには誰もいないんだよ」といって、私が「じゃ、そんなに生きない……」とわぁわぁー泣いたことを思い出した。その小沢さんも、一緒にやった俳句の会で逢った次の月には、あっちに行ってしまった。

 昔、百歳まで生きるのが大変な時代に、私は、「NHKの7時の時報のとき、ピンピンピピーンと鳴る時計の隣りに、百歳の私がお座布団に座っていて、毎日、ピンピンピピーンのとき、ただ座っていて、いつか、いなくなったら、『ああ、死んだんだ』と思われるのはどうかなー」とNHKの人にいったら「いい考えだね。やってみようよ」と言ってくれた人も、もういなくなった。百歳の時の楽しみもなくなった。

 まあー、いまの私の未来にも楽しいことがあると信じて、元気に生きていきましょうかね。

新潮社 波
2018年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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