『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』
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小説は生きられるか? 世界の内側と外側をつなぐ“言葉”を探す試み
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
2001年に発表された『日本文学盛衰史』の続篇である。近代文学の黎明期に次々、新しい文学者が台頭する歴史を小説化したのが前著とすれば、本書ではいわゆる「戦後文学」を俎上に載せ、文学そのものの生き死にを小説化する。
ただし、プロローグで井上光晴が鮮烈に登場するものの、野間宏や椎名麟三といった戦後文学の代表的な作家はずらずら名前が列挙されるだけの扱い。読まれなくなった文学の作家たちとして気の毒にもほとんどスルーされ、武田泰淳と太宰治、「戦後文学」とは言いづらいが高見順が論じられるぐらいだ。
文学史的な名前を無視してフィーチャーされるのは『青い山脈』の石坂洋次郎で、石坂の『光る海』をとにかく明るいセックスを描いたもの、と若干、茶化しながらも、久しぶりに再読した『青い山脈』には、「『戦後文学』そのものじゃないか、という思いに打ちのめされた」という高い評価が与えられる。
この小説の連載が始まった2009年、目の前にいる人々は「文学」なんか必要としておらず、「わたし」は「『2009年』から『200Q年』の世界に入りこんでしまったのかも」「ここはわたしの生きていた世界ではないのかもしれない」という思いにとらわれている。
小説は生きられるか。そのためのカギとなる、世界の内側と外側をつなぐ言葉を探して、「わたし」は内田裕也の政見放送やラップ、ツイッター、川内康範作詞「死ね死ね団のテーマ」などの言葉をたどり始める。
言葉の海を漂う小説の流れを唐突に断ち切るのが2011年の東日本大震災だ。「『なにか』が『ずれた』」と「わたし」は感じる。そこはおそらく、「わたし」の考えていた「200Q年」とも違った世界だ。「あの戦争」を知らない人間にとっての「非常時」を経て、新しい言葉、新しい小説はこの先、生まれるのか。決着は、来るべき完結篇に持ち越されるのか。