水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ 野崎歓著
[レビュアー] 出久根達郎(作家)
◆巧みな虚構が死者生かす
面白い話は、たいがい虚構である。少なくとも嘘(うそ)が混じっている。罪の無い作り話をつづる小説家は、いかに不自然でなく真実らしいヨタを並べられるか、日夜、頭をひねっている。ご苦労さまな、なりわいである。まんまと騙(だま)された読者が、あっぱれ見事な嘘つきよ、と拍手喝采(かっさい)してくれる、幸福な職業でもある。
今年生誕百二十年、没後二十五年の作家・井伏鱒二は、近代文学者の中でも指折りのペテン師であろう。何しろ中学生の時、文豪・森鴎外(もりおうがい)を手もなく騙くらかしたのである。作品に疑義がある、と鴎外に手紙を寄せた。「老人なるが如(ごと)」き筆跡と「真率(しんそつ)なる処(ところ)がある」文章に、文豪は揶揄(やゆ)でないと信じた。その手紙文は鴎外の『伊沢蘭軒(いさわらんけん)』其三百三に引用されている。井伏の、いわばデビュー「作品」になる。筆名は朽木三助、のちに朽助(くちすけ)という老人が登場する短篇を書いている。
井伏と太宰治は師弟の関係だが、高校生の太宰が無名の井伏の小説を読み、天才を感じて文通を求めたのがきっかけだった。後年二人は共作も試みている。ある時は太宰が井伏の原稿の清書を手伝った。書き写しながら、火山噴火の迫真の描写に、うなった。そのことを『井伏鱒二選集』の後記に書いた。
井伏はこれを、太宰の作りごとと批判した。自分は噴火資料の原文をそのまま写したにすぎない、太宰一流の皮肉である、と。研究者が調べてみると、井伏の主張する描写は、確かに資料の原文とほぼ同じであった。井伏の手法は複雑で、虚構めかしく史実を写す。嘘と事実の境があいまいである。
かくて井伏文学は、手記や日記や歴史文献を扱った作品が多いが、その一部は巧妙に「ネタ」を装った創作にほかならない。それは死の否定、死者を蘇(よみがえ)らせて現代に生存させる装置なのだ、と著者は説く。歴史の証人を死なせぬためのしかけである、と。
井伏作品の持ち味である「水」と「魚」から解き明かした本書は傑出した面白い作家論である。井伏を知らぬ人も作品を読んでみたくなろう。
(集英社・2376円)
1959年生まれ。東京大教授。著書『異邦の香り』『フランス文学と愛』など。
◆もう1冊
井伏鱒二著『山椒魚』(新潮文庫)。初期を代表する短篇を収めた作品集。