武道小説の第一人者が最後に描いた「合気」の深淵――津本陽『深淵の色は 佐川幸義伝』

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深淵の色は 佐川幸義伝

『深淵の色は 佐川幸義伝』

著者
津本陽 [著]
出版社
実業之日本社
ISBN
9784408537313
発売日
2018/10/05
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

武道小説の第一人者が最後に描いた「合気」の深淵

[レビュアー] 末國善己(文芸評論家)

 今年の五月二十六日、歴史時代小説の大家・津本陽さんが亡くなられた。享年八十九。

 津本さんの代表作として、織田信長を独自の視点で描いて大ベストセラーになった『下天は夢か』を挙げることに異論はないだろう。このほかにも津本さんは、『勝海舟 私に帰せず』『巨眼の男 西郷隆盛』『龍馬』などの歴史小説の名作を残したが、達人たちの息詰まる対決が魅力の武道小説も創作の柱の一つにしていた。

 津本さんの武道ものの中心は、剣道と抜刀道の有段者だった経験を活かした剣豪小説である。剣客が相手を斬るまでの動作と心理をストップモーションのように描いた津本さんは、剣豪小説に革新をもたらしたといえる。特に刃の方向と力の方向を同じ角度にして斬撃する時の描写「刃筋を立てて斬る」には、衝撃を受けた読者も多いのではないか。津本さんの故郷である和歌山県(旧紀州地方)で活躍した傭兵集団・雑賀衆を取り上げた『鉄砲無頼伝』『信長の傭兵』の二部作では、一撃必殺の狙撃から集団戦闘まで鉄砲術の奥深さが活写されていた。

 武道ものをライフワークにしていたといっても過言ではない津本さんが、晩年に最も力を注いだのが合気道である。大東流合気柔術第三十六代宗家・佐川幸義氏の門人となった津本さんは、佐川氏の師である武田惣角を主人公にした小説『鬼の冠 武田惣角伝』、佐川氏の伝記『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』など合気道ものを意欲的に発表している。 

 本書も『孤塁の名人』に続く佐川氏の伝記だが、門人たちの証言が増え、新発見の資料も盛り込まれており、より佐川氏の合気の「深淵」に迫っている。本書を読むと師への深い敬愛が伝わってくるので、この作品が遺作になった津本さんは、最も幸福な形で作家人生を終えたといえるかもしれない。

 本書は、津本さん自身が語り手の「私」になり、実際に佐川氏から聞いた話、兄弟子たちの日記、メモ、証言、佐川氏の自宅から見つかった書簡などを引用しながら、佐川氏が長い修練で身に付けた合気とは何かを描いている。そのためエッセイのように思えるが、作家が語り手になり、資料を集めるプロセスから、その資料の信頼性の判断までを丁寧に説明することで不正確な情報を排し、作家が真に正しいと判断した事件や人物像を明らかにするのは、明治中期に確立した史伝と呼ばれる歴史記述の伝統的な手法なのだ。

 森鷗外も作品を完成させるまでの経過を克明に追った史伝『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』を書いているが、史伝は決して鴎外の専売特許ではない。鷗外は晩年に史伝を書いたが、これは海音寺潮五郎も同様である。伝奇的な作品も、歴史を独自の解釈で切り取った作品も書いた津本さんも、最後に評伝に行き着いた作家の一人なのである。

 本書を読むと、佐川氏の合気の凄まじさに衝撃を受けるはずだ。佐川氏のもとを訪ねるのは、柔道、空手、剣道など一流の武道家ばかりだが、そんな強者も佐川氏にかかると一瞬で倒される。その動きは、これまで剣客の動きを緻密に描いてきた津本さんですら描写できないほどなのだ。しかも佐川氏は、道場で倒すのは弟子への指導でもあるのでやさしくしているが、真剣勝負ならまったく別の技になるという。事実、長く佐川氏に師事した数学者の木村達雄によると、先生に倒されたことが修業になったと語っている。

 津本さんは随所で佐川氏の人間業を超越した妙技を紹介しながら、修業法、哲学、人に活力を与える活法、易との関係など多角的な視点から佐川合気の実像をとらえていく。やはり興味深かったのは津本さんが得意とする剣と合気の関係で、フィクションの中にしか存在しないと思っていた「無刀取り」が、佐川氏の技に触れ本当にできると実感できた。

 柔道はどのタイミングで、どの方向に力を入れれば相手が倒せるかを説明できる。これは相撲も同じである。剣道にも、相手がこう動いた時は守り、この時は攻めるなどのセオリーがあるので理論化が可能だ。佐川氏も合気は神秘的な技ではなく理論があるので、それを身に付ければ誰でも使えると繰り返すが、合気を習得するには才能が必要とも、才能があっても努力しなければ到達できないとも語っていて、武術の門外漢からすると禅問答である。おそらく理論があり一人で修業しても一定のレベルになれる武術を、経典で学べる顕教的な仏教とするなら、長い年月をかけて師と生活を共にし、哲学と技に接しながら自分なりの“悟り”を開かなければならない合気は、体験を重んじる密教に近いのだろう。

 それだけに正直な話をすれば、本書を読んで佐川合気の「深淵」を理解できた、とは言い切れない。ただ日常生活の何気ない風景の中にも合気を高める要素があると考え、たゆまぬ「努力・訓練・工夫・研究」を重ねる佐川氏の思想は、ネットの情報だけで知識と経験を得た気になっている現代人への批判とも解釈できる。また「宇宙天地森羅万象のすべては融和調和によりて円満に滞りなく動じているのである。その調和が合気なのである」とした佐川氏の道場訓は、自然との調和、人との融和が失われつつある現代社会への警鐘になっている。その意味で佐川氏の合気は、武道にかかわりを持っていない読者にも、価値観をゆさぶり、人生を見つめ直すヒントを与えてくれる。もしかしたら津本さんが最後に合気を描いたのは、こうしたメッセージを伝えるためだったようにも思えた。

J-enta
2018年10月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

実業之日本社

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