[本の森 医療・介護]『私が誰かわかりますか』谷川直子/『時限感染 殺戮のマトリョーシカ』岩木一麻

レビュー

5
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私が誰かわかりますか

『私が誰かわかりますか』

著者
谷川直子 [著]
出版社
朝日新聞出版
ISBN
9784022515605
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

時限感染 殺戮のマトリョーシカ

『時限感染 殺戮のマトリョーシカ』

著者
岩木一麻 [著]
出版社
宝島社
ISBN
9784800287731
発売日
2018/09/07
価格
1,490円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

[本の森 医療・介護]『私が誰かわかりますか』谷川直子/『時限感染 殺戮のマトリョーシカ』岩木一麻

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 旧い常識を問い直す声が上がることの珍しくない時代である。谷川直子『私が誰かわかりますか』(朝日新聞出版)は、介護という題材でそれを行った興味深い作品だ。

 舞台となるのは九州地方、鳩ノ巣という小さな地方都市だ。そこに住む木暮守という男性が認知症になった。介護認定は要支援2、身の回りのことは自分でできるからだ。しかしそれが仇になる。几帳面で何でも自分でやるという体にしみついた習慣は守の脳がそれを統御できなくなっても抜けず、周囲の者を困らせるようになる。家族は彼を施設に入れて専門家の手を借りたい。しかし親戚や隣人の声を気にするあまり、なかなか行動に移すことができないのだ。

 ボケたら家族が面倒を見るべきだ、親の介護は長男の嫁の仕事、といった「当たり前」の圧力に押しつぶされ、疲れていく人々が本書の主役だ。守の長男・隆行と結婚した桃子は、もともとは東京でイラストレーターの仕事をしていた。外から来たから余計に常識の違いが辛いのである。彼女を中心に据える形で介護の当事者たちの事情が次々に描かれる。

 群像劇であり、さまざまな声が作中には響いている。風化した慣習をただ否定するだけではなく、その中に生きる人々に寄り添っているのが本書最大の美点だ。このように老い、死んでいくのだ、という現代の縮図を作者は見事に作り上げた。

 もう一冊は医療ミステリーの注目作を取り上げる。岩木一麻『時限感染 殺戮のマトリョーシカ』(宝島社)だ。こちらはウイルスをばら撒く無差別テロを題材にした、緊迫のスリラーである。

 大学教授が自宅で殺されているのが発見された。現場には犯人のものと思われるメッセージが遺されていたのである。「我々はマトリョーシカの外殻を手に入れた」から始まり、数十万人の命を奪うバイオテロを示唆する内容だった。元空手家の桐生彩乃刑事と元生物学専攻でカマキリのあだ名を持つ鎌木多聞警部補が犯人を追う。

 デビュー作『がん消滅の罠 完全寛解の謎』(宝島社)では、発見されたはずのがん病巣がなぜか体内から消えるという魅力的な謎を呈示した作者が、スリラー形式の作品に挑戦した。刑事たちの捜査と並行して犯人と思われる二人の動きが書かれているのが注目すべき点で、両者が交わる地点に強烈な爆弾が仕掛けられている。着想自体はごく単純なものだが、それを発動させる仕掛けに芸があるのだ。よくこんなことを考えたものだ、と感心させられる。

 テロの仕組みもありふれたヘルペス・ウイルスを使ったもので、読むのに特別な素養は必要ない。専門的な知識をわかりやすい物語の形に落とし込む、技巧に優れた書き手なのである。前作を上回る知的興奮があり、広くお薦めしたい一冊である。

新潮社 小説新潮
2018年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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