『眠狂四郎無頼控 (1)』
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実は「三田文学」出身の“剣豪小説家”柴田錬三郎
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
【前回の文庫双六】日本は“雨の国”だから当然、小説にも描かれる――川本三郎
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永井荷風には、編集者としての顔もあった。1910年に創刊された慶應大学ゆかりの文芸誌『三田文学』。その初代の編集主幹をつとめたのだ。
当時、同大学の教授だった荷風は30歳。慶應出身の若手に積極的に誌面を提供し、その結果、久保田万太郎、水上滝太郎、佐藤春夫などの作家が育った。
『三田文学』は何度かの休刊をはさんで現在まで続き、多くの書き手を輩出した。私はここ数年、広島での被爆体験を描いた『夏の花』で知られる原民喜のことを調べてきたのだが、原も同誌出身の作家の一人である。戦前の無名時代から寄稿を続け、戦後の一時期は編集者もつとめた。
原は1951年、中央線で自死した。葬儀は『三田文学』と『近代文学』の合同葬で、弔辞を読んだのは『近代文学』の埴谷雄高と『三田文学』の柴田錬三郎だった。
このことを原の年譜で知り、柴田錬三郎が純文学雑誌である『三田文学』の出身だったことを意外に思った。文学通の人なら柴田が『三田文学』に発表した「デス・マスク」が同時に芥川賞と直木賞の候補になったことを知っているのだろうが、私は知らず、剣豪小説の流行作家というイメージしかなかったのだ。
やはり同誌出身で晩年の原と親しかった遠藤周作のエッセイに、戦後まもない頃に初めて『三田文学』の合評会に参加したときに見た柴田の姿が描写されている。洒落た縁なし眼鏡をかけた柴田は、前月に掲載された小説を痛罵していた。そのあまりの厳しさに、若い遠藤は驚いたという。
その遠藤が解説を書いているのが、『眠狂四郎無頼控(一)』。代表作である眠狂四郎シリーズの最初の一冊で、『週刊新潮』での連載スタートは1956年だった。いま読んでもまったく古びておらず、展開のスピードと文章の色気に時間を忘れた。実はこのシリーズ、テレビでしか見たことがなかった私。全巻読破してしまいそうな、さすがの面白さである。