『愛すること、理解すること、愛されること』
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罪悪感について
[レビュアー] 桜庭一樹(小説家)
困ったときの神頼み! 追い詰められると、信じてなくてもつい、「神様~、仏様~」と唱えてしまう。
こういう状況には、三種類のバリエーションがあると思っている。一つめは“得をしたいとき”。刀ステの人気チケットの抽選、宝クジなどに当たりたくて、空を仰いで、神頼み。二つめは“失敗したくないとき”。受験の結果発表を待ちながら、とか、財布をなくして必死で探し回りながら、とか。気づくとまた唱えている。
でも三つめは、もっと深刻だ。
それは、“罪悪感があるとき”――。
たとえば、去年、駅のホームで体調を悪くして座りこんだことがあった。女子高生に「大丈夫か」と何度も聞かれ、静かに休んでいたくて、つい「大丈夫っ!」と答えてしまった。その人はハッと息を飲み、続いて、ひどく恥じ入りながら歩み去っていった。
わたしはいったいなぜあんな言い方をしたのか。あの若い人はもう二度と見知らぬ相手に親切にできなくなったんじゃないか、と思うと、いまもたまらない気持ちになる。思いだすたび「神様~」と唱えてしまう。「どうかあの方からこの愚かな大人が奪ってしまったものを返してさしあげてください……」と。
つまり、わたしは、神様にしかできないことを願うとき、祈っているのだろう。
と、どうして急にこんな話をし始めたかというと、李龍徳が描き続けるテーマこそ、この“罪悪感”だと信じているからだ。
本書は『死にたくなったら電話して』『報われない人間は永遠に報われない』に次ぐ三作目だ。毒舌気味の専業主夫の光介と、陶芸家の巴香夫婦、みんなのマドンナ珠希と、その恋人の純吾は、大学時代からの仲良し四人組。そこにある日、元同級生の妹涼子が加わることで、長年培ってきた力のバランスがあっというまに崩れてしまう。さらに、片方のカップルのもとに赤ちゃんがやってきたことから、四人の王国は秩序を失い、混沌に陥る。その“ありふれたたまらない悲喜劇”の日々を、母による子殺しを描くギリシャ悲劇『王女メディア』を下敷きにしつつ、時にエモーショナルに、時に冷徹に描きだす。
李龍徳が描く人間たちは、自らの行動が生んだ罪悪感を抱えつつ、(駅のエピソードのわたしのように)相手について祈ったり、罪に見合う罰を欲して、父なる神を呼び続けたりする。それにしても、ほんとうに、法律では罰されず、相手からも責められないタイプの罪というのは、やっかいだ! なにしろ、償うことも謝罪することもできないから、いつまでも終わらない。
人は、そういう逃れられない罪を、いつしか友とし、一緒に生きるようになるんじゃないだろうか。そして、そのぶん、自分も人を赦せるようになる。登場人物たちの苦い罪を、「赦します、赦します」と祈るように読んでいるとき、わたしもまた、傍にいる我が友、自分自身の罪と対峙しているのだ。