『しき』
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「はざま」から見る十六歳の景色
[レビュアー] 大塚真祐子(書店員)
夜の匂い、流れる汗、風の温度、五感が感受するあらゆる情報が言葉になる前に、いわばその手触りしか存在しない空白の時間が存在するはずで、町屋良平はその「感覚」と「言葉」のはざまにしつこく自分の身を置きつづけている。平仮名にひらかれた文体は、文字とそのイメージが手助けするはずの理解を咄嗟に遅らせ、読者は小さなわからなさの中に、幾度も閉じこめられる。
〈ほんとうにつたえたいことをつたえたいとき、知っていることばの範疇では、表現できない〉というのは、この作品の中心人物であるかれ=星崎の述懐だが、未知の言葉への切望と、作者の創作に対する姿勢、さらには表現できないことの思索にも言葉を用いるしかないという終わらない命題にまで想像は及ぶ。言葉の意味以上の地平に思考が広がる一方で、この文体は舌足らずな幼さも当然感じさせる。
「踊ってみた」動画をきっかけにダンスをはじめた星崎の視点を軸に、少年少女たちの人間関係のゆらぎを描いた『しき』は、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、山田詠美『ぼくは勉強ができない』、長嶋有『ぼくは落ち着きがない』などのいわゆる青春文学の系譜に属すると考えられるが、これらの作品と比べると『しき』の登場人物たちは驚くほどあやうい。
学生運動も語るべきセックスの経験もなく課外活動にも参加しない彼らには、〈高校生の磁場に属したボーイズトーク、ガールズトークにうまく馴染めない〉という共通点があるが、個々が持つ環境や嗜好に踏みこむ様子はなく、互いが三人称的な距離をとることで関係性が成り立っている。
かたや河原で生活する星崎の同級生つくもと、美しい阿波踊りをおどる徳島の杉尾少年は学校に通っておらず、つくもは女性の堕胎をほのめかし、杉尾少年は夏が過ぎるとひきこもる。距離をとることで成立する関係と、距離をとれないことで壊れるコミュニケーションが物語の中で並存する。彼らの中でダンスを発見した星崎だけが、漠然と「明るい場所」をめざして動き出し、十六歳の熱量をもてあましながら、言葉と身体、成熟と未熟のはざまで立ちどまり、考えつづける。
十六歳のあやうさと、町屋良平の文体がかもし出すある種の幼さは通じている。つねに未達で中途であることによって、読者は眠らせていた「なまの感情」を引きずり出される。思い出すというような生半可な作用ではなく、読む者すべてを高校二年生にする力を本書は持ちえている。星崎を「かれ」として見つめるのは作者だけでなく、読者の視線でもある。
〈いまのこの感情、感覚、わからなさこそを言葉にしたい。表現したい〉という星崎の欲望とは文学そのものの根源的な動機であり、数多の言葉がそのために紡がれてきた。本書では十六歳の言葉と身体を借りて、文学に対する本質的な問いかけがいくつもなされているように思える。次作以降で作者が、この問いにどのような言葉で、文体で、答えていくのかを見たい。