『最初の人間』
- 著者
- Camus, Albert, 1913-1960 /大久保, 敏彦, 1937-2006
- 出版社
- 新潮社
- ISBN
- 9784102114117
- 価格
- 693円(税込)
書籍情報:openBD
没後34年を経て発表 カミュ“自伝”の遺作
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
【前回の文庫双六】謎のまま残された未完のラスト――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/559603
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作者の死によって未完に終わった作品は、ときに悲劇的色彩を帯びる。たとえばアルベール・カミュのこの遺作だ。
1960年、南仏の家で新年を祝ったカミュは、友人の運転する車に同乗しパリに向かった。当時フランスの国道には制限速度がなかったという。猛スピードで疾走していた車は大きく道を逸れて街路樹に激突。カミュは即死した。享年46。
車の中にあったバッグから発見されたのが『最初の人間』の原稿だった。しかし妻フランシーヌはこれを活字にしないことに決めた。アルジェリア戦争の時代、穏健派のカミュは左翼からも右翼からも攻撃の的にされていた。遺作でのノスタルジックなアルジェリアの描き方によって、カミュの名がさらなる非難に晒されることを恐れたのだ。
作者没後34年も経ってようやく遺児の手で世に送り出された作品を一読したとき、その文章のナイーヴでみずみずしい輝きに心打たれずにはいられなかった。眼目は、父親のいない家庭に生まれた一人の少年ジャックが成長していく姿を描き出すことにある。
貧しい暮らしの中で、ジャックが祖母を連れて映画館に行く場面がある。無声映画の字幕をジャックは祖母に小声で読んでやる。祖母は字が読めないのだ。そしてジャックの母親も。
だがジャック自身は学校で優秀な成績を収める。生活苦にめげることなく、「純粋な生への情熱」に鼓舞されてめきめきと頭角を現していく。作者カミュの人生そのものだ。
カミュは恩師ジャン・グルニエに「これまでよりもダイレクトな小説を書きたい」と述べていた。それが過去を追慕する自伝的作品へとつながった。43歳でノーベル文学賞を得たカミュだが、当時は重い鬱状態だった。原点への回帰は自己救済の手段でもあったろう。
アルジェの青空から「絶えず降り注ぐ陽光」が少年を包んでいる。それこそがカミュの心身を育んだこのうえない糧だったのである。