『大名絵師写楽』
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「クリエイターたちの反骨物語『大名絵師写楽』
[レビュアー] 生島淳(ノンフィクション作家)
田沼意次が失脚、松平定信が老中になり、時代は大きく動こうとしていた。
江戸の書肆(しょし)では右に出るものがいないといわれた「蔦重」こと蔦屋重三郎は、一枚の絵に魅せられていた。
踊り狂う男。
この絵を描いた絵師に、ぜひとも筆をとらせたい。
歌舞伎役者の大首絵を描かせたら、まちがいなく、女性は狂喜し、飛びつくことだろう。
しかし、お上はクリエイターたちに睨みを利かせていた。蔦屋重三郎は幕府から重過料を科せられ、経済的に大きな打撃を蒙る。盟友でもある戯作者たち、恋川春町、山東京伝、朋誠堂喜三二らも次々と咎めを受けていた。
幕府によってじわじわと狭まる包囲網。しかし、ただでは転ばない蔦重は起死回生の策を探っていた。
ところが、困ったことに「踊り狂う男」の絵師が分からない。その絵師を知るかねてからの友人喜三二に紹介を依頼するが、にべもなく断られてしまい、簡単には事が運ばない。しかし、粘りに粘った蔦重は次のひと言を喜三二から引き出す。
「万が一、唐丸(注・蔦重の狂名)があの絵を描いた人物の名を突き止めたなら、相手に当たってもよいが」
蔦重は謎の絵師を探しはじめ、ついにその正体を突き止める。蔦重と喜三二、そして謎の絵師が面会したところから、物語の幕が開く――。
『大名絵師写楽』は今風にいえば、反骨精神旺盛なクリエイターたちの物語である。
東洲斎写楽をひそかに生み出すために知恵を働かせるコンゲーム的な要素は痛快で、読み進めると、幾重にも伏線を張りめぐらせた蔦重の企みに加わっているような興奮を覚えてくる。
しかし、写楽の華々しいデビューのあと、時が経つにつれ風向きが怪しくなり、ほろ苦さが物語を支配していく。
東洲斎写楽の正体を探ろうとする者たちから、写楽の秘密を守るために防戦を強いられる蔦重。21世紀になったいまも東洲斎写楽は謎に包まれているが、後世の人間の目をも欺きとおしたその仕掛けは、いかに考えられたのか。
作者の野口卓さんの本は、すべて読んでいる。野口さんは70歳を超えているのに驚異的なペースで物語を生み出し、
『軍鶏侍』シリーズ
『ご隠居さん』シリーズ
『手蹟指南所「薫風堂」』シリーズ
などが快調に巻を重ねている。
驚いたことに、今年の夏には『なんてやつだ よろず相談屋繁盛記』という新しいシリーズまで立ち上げており、一体全体、いつ原稿を書いているのだろうと不思議でならない。
『大名絵師写楽』は「小説新潮」に連載されたもので、毎月、野口さんの仕掛けを思う存分楽しませてもらった。
江戸時代の出版界についての広範な知識、歌舞伎界の事情が詳しく書かれ、並々ならぬ教養がにじみ出ている。
さらには、いま現在の美術界では東洲斎写楽の正体は阿波藩のお抱え能楽師、斎藤十郎兵衛だったという説が有力になっているが、野口さんはその説も意外な形で巧みに物語に取り込み、ストーリーを展開していく。
この小説は単純な痛快小説ではない。必死に仕事に取り組む人間たちの悲哀を描き出し、深い味わいを生み出している。
そしてもうひとつ、『大名絵師写楽』には、別の楽しみ方があるということをお伝えしておきたい。
2017年4月に講談社文庫から書き下ろしで出版された野口さんの『一九戯作旅』と『大名絵師写楽』は、なんとパラレルに物語が進行しているのだ。
『大名絵師写楽』では、写楽を芝居小屋に案内する青年一九が登場するのだが、『一九戯作旅』では一九側から蔦重の様子が書かれ、写楽騒動の顛末をまったく違った視点から見ることが出来る。
つまり、二冊併せて江戸の豊潤な創作の世界が味わえるのだ。「野口ワールド」と言っていいかもしれない。
小説世界の登場人物が他の小説でも登場する手法は、バルザックの『人間喜劇』シリーズにとどめを刺すが(誰かが死にそうになると、ビアンションという医師が決まって登場する)、野口さんも『軍鶏侍』シリーズからスピンオフした『遊び奉行』ですでにこの手法を成功させている。
いま、読書の楽しみをこれほど味わえる作家は、他には見当たらない。
蔦重は紛れもない傑物だが、野口さんもまた、傑物である。