『母の前で』 ピエール・パシェ著

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母の前で

『母の前で』

著者
ピエール・パシェ [著]/根本美作子 [訳]
出版社
岩波書店
ISBN
9784000244879
発売日
2018/10/11
価格
2,592円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『母の前で』 ピエール・パシェ著

[レビュアー] 伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

読者触発する繊細な言葉

 最初から最後まで震えながら読んだ。そして今なお頁(ページ)から離れることができない。いたるところに傍線、終わらない抜き書き。著者の言葉が、読む者の思考を触発して止(や)まないのだ。百歳を越えた一人の母親が、どのように老い衰え、人間としての輪郭を失っていくか。死に向かう長い下り坂を降りる母の傍(そば)に著者は立ち、一段ずつ足場を固めるようにして、そこから見える景色を記述していく。私はいままでに、人の感じる力と分析する力が、こんなにすばらしく協働(きょうどう)しあうさまに立ち会ったことがない。

 「触発」は本書全体のキーワードでもあるだろう。なぜなら生きるとは、他者との出会いによって絶えず己の形を変え続けることであり、逆に老いそして死するとは、そうした触発の連鎖から離脱することなのだから。だが、この離脱は必ずしも触発の頻度の減少を意味しない。人間的な、あるいは社会的な触発のネットワークからこぼれ落ちたとしても、そこにはまた別の触発の様相があるからだ。

 たとえば言葉の出方について。著者の母は次第に会話する能力を失っていくのだが、それと引き換えに、終わりのない独り言に日常が埋め尽くされていくことになる。独り言、というのは正しくないかもしれない。なぜなら彼女は、自分のなかから出て来た言葉を、まるで誰かが自分に語りかけた言葉のように受け止めているのだから。こうして現実の他者に触発される能力を失うことによって、彼女は別の、いわば言葉そのものが持つ触発の勢いのようなものに身を委ねていく。

 衰退は決して直線的に進行するわけではない。そのことに戸惑いつつも、著者はそれを自伝的な感情の物語に終わらせるのではなく、臨床的な問いの連鎖として深めていく。母の老いという多くの人が体験するつらい宿命を、繊細な言葉で照らし出してくれる、すばらしい一冊である。根本美作子訳。

 ◇Pierre Pachet=1937~2016年。パリ生まれのフランスの作家・評論家。著書に『父の自伝』『愛なくして』など。

 岩波書店 2400円

読売新聞
2018年11月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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