ポップヒストリアンは、いかにして〈未来擬史〉をしたためたのか?

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

ポップヒストリアンは、いかにして〈未来擬史〉をしたためたのか?

[レビュアー] 池田純一(FERMAT Inc.代表、コンサルタント/デザインシンカー)

『ホモ・デウス』については、すでに長いレビューを2回書いている。だから、ここでは少し絡め手から論じてみたい。それはこの本を手にとった時からずっと疑問に思っていたことなのだが、そもそもどうしてこんな本が書けてしまったのか?という問いだ。
「こんな本が」というのは、歴史学者、それも中世軍事史が専門のハラリが、どうして未来を展望する本――ここでは未来を歴史のようにシミュレート(=模擬)したものとして「未来擬史」と呼んでおく――を書いてしまったのか?、ということであり、また「書けてしまったのか」というのは、すでに起こってしまった歴史と違って、未来なんて素材の集めようでいかようにでも書けてしまうところを、なにゆえあのような展開に収まったのか?ということだ。
いずれにしても、著者ハラリの心づもりはどこにあったのか?という疑問である。
もちろん『サピエンス全史』で思わぬ成功を手に入れてしまい、そのまま功名心に駆られてしまったから、というのは誰もがすぐに思いつく理由だろう。正直なところ、原書を手にした時はそんなふうに思っていた。
ところが、実際に読み進めてみると、未来展望に擬態した現代社会への警世の書であることは一目瞭然だった。つまり、西洋社会でいうところのpublic intellectual(公共知識人)としての自意識に満ちた本であり、そこには、どうしても書かねばならないという強い意志が感じられた。このあたりが、同じ歴史的題材をかなりの部分で扱いながらも『サピエンス全史』とは異なる書きぶりを感じさせるところだった。
端的に、ダニエル・ベルの本を手にしたような感じだった。現代世界を扱うという点ではポップな感覚を残しながら、しかし歴史的視点に依拠しながら未来を論じるスタイル。過去の事実を教訓として踏まえながらも、状況の類似性から過去の事件の洞察に基づいて未来についての思弁を一通り巡らせてみせた上で、翻って現代に警鐘を鳴らす、というスタイルだ。
そこにはハラリがオックスフォード大学で学んだという事実も少なからず影響を与えているように思える。イギリスでは歴史学は学問の雄とされるからだ(近藤和彦『イギリス史研究入門』)。伝統を重視する慣習法の国では、歴史の中に先人の洞察という(暫定的な)真理を見出し、それを現在の議論に応用することで然るべき判断が下されるのだが、その結果は、具体的な未来の出来事の現出に繋がる。そのような思考の運動の担い手の一人がイギリスの歴史学者である。
要するに、ハラリもこうした歴史学者に備わる公共的責務の感覚から、せっかく掴んだオピニオンリーダーとしてのチャンスを最大限活かしてみようとしたのではないか。それが門外漢ながらも「未来」を論じることに挑戦する動機となったのではないか。
同時に、このような考えに至ったところで、どうして『ホモ・デウス』があのような展開に辿り着いたのか、わかったような気がした。多分、あのプロットの元ネタは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』なのだ。そう考えれば、ハラリが『ホモ・デウス』の最後で、それまでの説明を覆すような「ちゃぶ台返し」の問いを残したことも理解できる。あの問いを記さなければ、ミシェル・フーコーの『言葉と物』ではないけれど、「人類は消失します」と書き記すしかなかったからだ。
中世軍事史の専門家にすぎなかった一歴史学者のハラリが『ホモ・デウス』という未来擬史を書ききれたのは、あらかじめこの「成功した理由で自壊する」というギボンのプロットが頭にあったからなのだろう(「成功した理由で自壊する」という命題は、クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』と類比的だがここではその指摘にとどめる)。少なくとも歴史学者の彼が、しかも人類史に取り組んだ彼が一度もギボンを手にとったことはない、ということはさすがにありえないと思うからでもある。
となると、ギボンの本のタイトルにあやかるならば、『ホモ・デウス』はさしずめ『ヒューマン帝国衰亡史』とでも呼べばよい。『ホモ・デウス』によれば、近代400年を生み出したのは西欧が出自の「ヒューマニズム」であり、その勝利がゆえの「ヒューマン帝国」である。その「ヒューマニズムが生み出した帝国」の主(あるじ)たる人類は、別に千年も先の遠い未来ではなく、せいぜい数十年後の近未来において「No Way-Out(出口なし)」の状態に追いやられる。そんな「滅亡の危機」に瀕した未来から翻って、今、何をなすべきなのか?とハラリは問うてくる。
それはかつてギボンが、18世紀後期の「彼にとっての現代」に対して行ったこととそっくりだ。
ギボンは、いにしえのローマ帝国を引き合いにしながら、彼の時代の「リアルな今」であった、大国として台頭しつつあるイギリス社会に対していわば長大な時評を試みた。ハラリの姿はこの警世家としてのギボンの姿を彷彿とさせる。
ギボンの歴史書の第1巻が出版された1776年は、アメリカが独立宣言を公表した年であった。欧州の辺境の島国から、それ以前の欧州の盟主であるスペインやフランスを打ち破り、イギリスが最初の頂点を極めようとしたまさにその瞬間、足下の北米植民地から反乱の狼煙が上げられた。そのような事態に直面したイギリスの統治者たちに対して、ローマ帝国の繁栄の中にすでに自壊の論理が胚胎されていたことを説くことで、反省の機会を与えた。
正統性のない理不尽な締め付けは、結局、現地の反乱を引き起こすだけのことであり、そのような結末は宗主国のイギリスとしても望むところではない。初期産業革命においてロンドン市内で生じた苛烈なまでの貧富の差という惨状への対応も含めて、19世紀以降、イギリスの国内外で自由主義的改革が実施されていった。できるだけ普遍的な自由を保障する体制を作り出そうとしていった結果、イギリスは19世紀を通じてヴィクトリア女王時代の、いわゆる大英帝国としての栄華を極めることができた。
実は、『ローマ帝国衰亡史』が刊行された1776年は、アダム・スミスの『国富論(諸国民の富)』が出版された年でもあった。つまりギボンが現状のやり方では早晩、イギリスは内破するぞと警告していた傍らで、その旧来のやり方に代わる「新たなやり方」をすでに考案していた人物がいたわけだ。市場を通じて自由な経済を実現することで人びとに繁栄をもたらす方法を説いたアダム・スミスは、ハラリが『ホモ・デウス』の中で人類社会からの近未来における消失を憂えた「リベラル・デモクラシー」の創始者のひとりでもあった。
残念ながら、『ヒューマン帝国衰亡史』=『ホモ・デウス』の傍らには、当代のアダム・スミスとして新たな冴えたやり方を提案するものはまだ見当たらない。その探求に本腰を入れることが、おそらくは『ホモ・デウス』を読んだ者たちが心がけるべき次なる課題なのではないだろうか。

Web河出
2018年11月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク