戦前「思想検事」だった父との関係を描く、著者の“自伝的長篇”

レビュー

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流砂

『流砂』

著者
黒井, 千次, 1932-
出版社
講談社
ISBN
9784065133095
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

戦前「思想検事」だった父との関係を描く、著者の“自伝的長篇”

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 いつか書かれると淡く期待していた小説が、思いがけない形で差し出された驚きがある。この本の帯にある「自伝的長篇小説」というのは、作家と、戦前に「思想検事」だった過去を持つ父親との関係を描いたものであることを指すのだろう。

 七十代の息子と九十代の父親は、同じ敷地内に建てた別々の家で暮らしている。かつて父親が司法省の検事だった時に書いた転向思想犯に関する報告書を読みたいと頼み、家庭で仕事の話をすることのなかった父も、それを了承する。

 しまったはずの場所に報告書はなく、体調を崩した父が入院中に、息子は偶然、父の書棚にその古い報告書があるのを見つける。時間をかけて若き日の父が記した分厚い報告書を読みすすめるが、自分が読んだということを父には言い出せない。過去を隠そうとしない父親に対して、息子の側が読んだことを「知られたくない」と思い始める。

「我とは何か」といった文章で始まる報告書は型破りなもので、息子をとまどわせる。洋風のものに憧れ続けていたが、「左翼からの転向者によって『真の日本人』に目覚めた」父。「身体の奥でぐきりと曲ってしまった歴史の黒い軸を抱えたまま、あの人は今、どんなことを感じ、何を考えているのだろう」と息子は想像をめぐらす。退院した父に改めてそのことを切り出そうとするのだが、訪問者に邪魔され果たせず終わる。

 生身の父と向き合うかわりに、息子は外へと視線を向けていく。発禁本の展示会に足を運び、やはり父親が思想検事だったという女性と偶然、知り合うと、わざわざ彼女の自宅を訪ねたりもする。

 父と自分の残り時間も、父の報告書の存在を自分に伝えた友人の思いも、刻々と形を変え、失われ続ける。アルバムの台紙から一斉に流れ落ちる写真、空気の流れを断ち切るようにかかってくる電話の音など、細部の描写に主人公の心の揺れが映し出されている。

新潮社 週刊新潮
2018年11月22日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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