沢木耕太郎 村上春樹が締め切りを守る理由に「ドキン」とさせられる

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作家との遭遇 全作家論

『作家との遭遇 全作家論』

著者
沢木耕太郎 [著]/藤田嗣治 [イラスト]
出版社
新潮社
ISBN
9784103275206
発売日
2018/11/30
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

作家との遭遇

[レビュアー] 沢木耕太郎(作家)

沢木耕太郎
沢木耕太郎

作家との遭遇

 私は小学校の六年生くらいから小説を読みはじめた。そして、中学、高校と進むにつれ、自分の嗅覚に従って、さまざまな作家の本を読み漁った。
 しかし、ひとりの作家のすべてを読むというような読み方をしたのは、大学生になってからのアルベール・カミュが最初だったと思う。
 大学の四年になって、いざ卒論を書かなくてはならないということになったとき、経済学部の学生だった私にとって、書くべきテーマの方向は三つほどあった。
 ひとつは、ゼミナールで大学三年の一年をかけて講読しつづけてきたマルクスの『資本論』を同じマルクスの「経済学―哲学手稿」を軸に読み直していくという試み、ひとつは、大学四年のゼミでやろうとして果たせなかった日本経済の現状分析をするという企て、そしてもうひとつは、ゼミの仲間とは離れて単独で進めていた「日本における社会主義と超国家主義」の研究を精密化するという作業。とりわけ三つ目のテーマは、ある会で発表したスケッチ風の論文に眼を通してくれていた指導教官が強く勧めていたものだった。
 だが、そのときの私には、どれも自分とは遠いテーマのように思えてならなかった。
 資本論? 日本経済分析? 社会主義と超国家主義?
 こんなものが、二十一歳の自分にとって六カ月も七カ月もかけて取り組むべきテーマなのだろうか……。
 何を読んでも虚しいばかりで、茫然と無為な日々を送っていた当時の私に、唯一、胸の奥まで届いてくるようだったのがカミュの著作、とりわけ初期のエッセイ群だった。
 私は、ふと、これについてなら書けるかもしれないと思った。
 そこから、本格的にカミュを読みはじめたのだ。手に入るだけのものをすべて集め、徹底的に読み込んでいく。そして、ひとつのイメージを感受したところで、曖昧なまま揺れ動いているものを言語化していく。それは私にとって初めてのスリリングな経験だった。
 その意味では、私にとって最初に「遭遇」した作家は、やはりアルベール・カミュということになるのかもしれない。

 大学を出て、偶然のことからフリーランスのライターとなった私に、多くの作家と「遭遇」する機会が訪れた。
 まず、新宿や銀座の酒場で、生身の作家と「遭遇」することになったのだ。
 作家やジャーナリストや編集者が集まるような酒場は、多くが小さな空間にひしめくようにして飲むというようなところであるため、居合わせればどうしても言葉を交わすようになる。そのようにして、自分が読者だった作家と何人も「遭遇」することになった。
 酒場で出会い、親しくなった作家も少なくないが、実際には言葉を交わさなかった作家の記憶も鮮やかに残っている。
 銀座では、「きらら」と「まり花」という小さな酒場が私にとっての「学校」だったが、ある日の夕方、早い時間に、そのうちの一軒である「きらら」に行くことがあった。たぶん、誰かとの待ち合わせがあったのだろう。
 店に入っていくと、他に誰も客のいないカウンターでひとりの老紳士が飲んでいた。スーツ姿で、背筋の伸びた白髪のその老紳士は、酒場のマダムである清原さんと、ひとこと、ふたこと、短く言葉を交わしながら、静かにハードリカーを飲んでいた。
 それが一杯目だったのかすでに二、三杯飲んだあとなのかはわからなかったが、そのグラスが空になると、老紳士は立ち上がり、清原さんに挨拶をし、私に軽く目礼をして、店を出ていった。
 外廊下にあるエレベーターのところまで見送って戻ってきた清原さんに、私は訊ねた。
「どなた?」
 すると、清原さんが驚いたように言った。
「ご存じなかった?」
「うん」
 すると、清原さんが言った。
「源氏鶏太先生」
 かつて私が少年だった頃、近くにあった貸本屋で、その棚の多くを占領していたのは、時代小説の山手樹一郎と現代小説の源氏鶏太だった。二人とも、批評家には、何を読んでも金太郎飴のようだと揶揄されながら、実に多くの読者を摑んでいた。だが、その源氏鶏太も、花形の「流行作家」の時代は過ぎ、私にはまだ存命中だとは思ってもいなかったほど遠い存在になっていた。
 しかし、その日、酒場で「遭遇」した佇まいの美しさを見て、あらためて源氏鶏太を読み直さなくてはと思ったものだった。

 フリーランスのライターとなった私が、作家と「遭遇」する場は「酒場」以外にもうひとつあった。「文庫」の解説を書くという機会を与えられるようになったのだ。
 通常、文庫の解説には、その作家との交遊のちょっとした思い出話や、さらっとした印象記のようなものが求められているということはわかっていた。しかし、私はそれをひとりの作家について学ぶためのチャンスと見なした。具体的には、あらためて全作品を読み直し、自分なりの「論」を立ててみようと思ったのだ。そのため、執筆する原稿の枚数も、通常の解説の域を超えるような長さをこちらから要求し、それを受け入れてくれるものにだけ書かせてもらうことにした。四百字詰めで十数枚というのが依頼されるときの平均的な枚数だったが、私は二十枚から三十枚、中には四十枚近くまで書かせてもらったこともあった。
 それを書き上げることには、毎回毎回、カミュについての卒論を書いていたときと同じような昂揚感があった。もしかしたら、そうした解説を書くことで、常に私は「遭遇」した作家についての短い「卒論」を書いていたのかもしれない。
 かつて『路上の視野』や『象が空に』に収載したものを含め、新たに編み直したこの二十三編は、私がさまざまな分野の作家について正面から書いていこうとした文章の、ほとんどすべてである。なぜ彼らだったのか。それもまた一種の偶然だったが、ただ、彼らの多くは、私と似て、どこか「境界線上」に身を置いている作家であったような気がする。この本のタイトルを、最後まで『作家との遭遇』にしようか『境界線上の作家たち』にしようか迷っていたのも、それが理由だった。

 村上春樹に「植字工悲話」というエッセイがある。
 自分ムラカミは原稿の締め切りを守る方だが、それは印刷所に勤める活字の植字工の家庭でこんな会話をされたくないからだ、というようなことを面白おかしく書いている。
《「父ちゃんまだ帰ってこないね」なんて小学生の子供が言うと、お母さんは「父ちゃんはね、ムラカミ・ハルキっていう人の原稿が遅れたんで、お仕事が遅くなって、それでお家に帰れないんだよ」と説明する。
「ふうん、ムラカミ・ハルキって悪いやつなんだね」》
 これを読んだとき、笑いながら、しかし同時に、私の胸はまさしく「ドキン」と音を立てたような気がした。
 私はかなり遅筆で、締め切りを過ぎてもまだ呻吟しているというようなタイプの書き手だった。そのときの私には編集者のことは視野に入っていたが、どこかに「よりよい原稿にするためなら許してもらえるはずだ」という甘えのようなものがあったにちがいない。
 だが、印刷所で働いている人のことまでは深く考えたことがなかった。そう言われれば、私が締め切りを遅らせることで、編集者ばかりでなく、印刷所で働く人たちに迷惑をかけるのだということを、あらためて思い知らされたのだ。
 以来、私は原稿の締め切りを守るようになり、遅れるということをほとんどしなくなった。
 村上春樹のエッセイは、少なくともひとりの物書きに対して、締め切りの期限を守るという点において「真っ当」な人間にする力があったということになる。
 しかし、にもかかわらず、この『作家との遭遇』に収められた作家論を書いていく過程で、机にその作家の著作を山のように積み上げ、片端から読んでいき、どのように論を組み立てていくか、何日も何日も考えつづけたあげく、結果的に締め切りを延ばしてもらわざるをえなくなるということが続いた日々を懐かしく思わないわけではない。
 可能なかぎり大きく網を広げ、それを打ち、力いっぱい引き絞り、できるだけ大きな獲物を引き上げようともがいていた日々。確かに、そうしなければ、引き上げ切れない獲物もなくはなかったのだ。

 この本の表紙に使わせてもらったのは、『銀河を渡る』のときと同じく、藤田嗣治の「小さな職人たち」シリーズの中の一枚「印刷工」である。
 もし、こんないたいけな少年が印刷してくれているのだと知ったら、どんな遅筆の作家でも絶対に締め切りに間に合わせようとすることだろう。言うまでもなく、絵の中の少年がやっているようなプレス作業はもちろんのこと、村上春樹のエッセイに出てくるような印刷所の植字作業も、いまはすでに遠くなってしまっているのだが。

新潮社
2018年11月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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