『ベートーヴェン捏造』 かげはら史帆著

レビュー

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『ベートーヴェン捏造』 かげはら史帆著

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

秘書が「盛った」楽聖像

 晩年のベートーヴェンには、音楽活動や日常のあれこれをサポートしてくれる秘書がいた。アントン・シンドラーという(現在の)チェコ生まれのこの青年はベートーヴェンを崇拝・敬愛し、無給でとことん尽くして世話をした。その結果、ベートーヴェン没後のシンドラーは、楽聖の人となりをもっとも親(ちか)しく具体的に知る人物となり、当然の義務(もしくは権利)のように『ベートーヴェン伝』を著して、これは世界中でベストセラーやロングセラーになった。

 しかし、シンドラーの書いたベートーヴェンの伝記には、何となくうさんくさいところがあった。「楽聖」ベートーヴェンを美化し、彼に仕える自分自身の存在を大きくし、返す刀でベートーヴェンの家族や他の側近たちのことはあしざまに扱っている。今風に言うなら、自分に都合のいいように話を「盛って」いるのである。

 さて、聴力を失ったベートーヴェンは、家族や友人たちとコミュニケーションするために、筆談用のノートを用いていた。「会話帳」と呼ばれるこれらのノートは、今日、百三十九冊が現存している。ベートーヴェンの創作の秘密や人柄、芸術観や音楽観を知るための最重要の一級資料だ。

 シンドラーはこの会話帳にも改ざんを行っていた。もちろん、自分に利があるように。あるいは、楽聖の言動がよりドラマチックになるように。たとえば『交響曲第五番 運命』のあのジャジャジャジャーンというモチーフについて、ベートーヴェンが「運命はかくの如(ごと)く扉を叩(たた)く」と言ったというエピソードは、シンドラーが会話帳の記述をもとにして書いたという伝記の他にソースはないのだという。

 音楽史の研究家や熱心なクラシック・ファンの間では、このシンドラーのリストならぬシンドラーの捏造(ねつぞう)は非常に有名な事件なのだそうだ。私は本書を読むまで全く知らなかった。ぜひ、この驚きを分かち合いたい。徹夜本です。

 ◇かげはら・しほ=1982年生まれ。一橋大学大学院修士課程修了。音楽家に関する小説や随筆を手がける。

 柏書房 1700円

読売新聞
2018年11月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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