『二十世紀旗手』
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『二十世紀旗手』に収録 手紙だけで構成の「虚構の春」
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
井伏鱒二は森鴎外に、そして小島政二郎は菊池寛に手紙を出した。今も作家に手紙を書く読者はいるが、昔は現在の比ではなかったろう。たいていはファンレターだったろうが、中には小島政二郎の手紙のように、作家を不愉快にさせるものもあったかもしれない。
太宰治の「虚構の春」は、師走上旬から元旦までの約1か月の間に届いた手紙で構成された小説である。その数、80通あまり。井伏鱒二や佐藤春夫といった実在の人物からの手紙と、太宰が創作したと思われる手紙が混在している。
〈謹啓。太宰治様。おそらく、これは、女性から貴方(あなた)に差しあげる最初の手紙と存じます。貴方は、女だから、男は、あなたにやさしくしてやり、けれども、女はあなたを嫉妬(しっと)して居(お)ります〉
こんな書き出しで始まる手紙は、太宰の大ファンである許婚を持つ女性からのもの。彼は週に一度、太宰に手紙を出している。そして4週間に一度、太宰から〈下女のように、ごみっぽい字で、二、三行かいたお葉書〉が届く。彼が宝物のように大事にしているその葉書が、決まって自著の宣伝であることが、手紙の主の女性は許せない。〈愛読者ですというてお手紙さしあげることは、男として、ご出世まえの男として、必死のことと存じます。作家は人間ではないのだから、人間の誠実がわからない〉と怒り、二度と手紙を寄こしてくれるなと書いている。
文体も内容もいかにも太宰の小説の登場人物で、どう見ても創作である。
〈一刻も早く、さよなら。太宰治先生〉〈知らないお人へ、こっそり手紙かくこと、きっと、生涯にいちどのことでございましょう〉
文庫本で3ページほどの文面だが、これだけで一篇の小説のようだ。
この作品、ただ手紙を並べただけでストーリーも何もないのに、ページをめくらせる尋常でない力がある。
昭和11年、27歳のときの作。やはり太宰は天才である。