『光まで5分』
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初めての沖縄
[レビュアー] 桜木紫乃(作家)
長いこと花村萬月さんの書く美しい文章に憧れ続けている。単行本デビューの際はそのタイトルを彼の造語である「氷平線」としたくらい。のちのち「勝手に使ってすみませんでした」と挨拶のネタにするためだ。念願叶ってご本人と対談という日、緊張のあまりほとんどまともなことを話せなかった。話そうと思うといかれぽんちなことを言い出すし、まとめる人もひと苦労だったはずだ。対談が終わってほっとしたころ、花村さんがぽつり。
「桜木、お前ちょっと北海道以外の場所を舞台に書いてみなよ。人間、前向きな失敗も必要だと思うよ。楽になるはずだから。沖縄なんかいいんじゃない?」
「わかりました、書きます」
何を話しているんですか、と問うた編集者に彼は「ふふふ、新人潰し」と不敵な笑みを返した。なにがどう楽になるのかを言わず、前向きな失敗がなにを意味するのかも明かさぬひとは、謎の言葉を残して去って行った。戸惑ったのは担当編集者だろう。今まで北海道を舞台にしていた書き手がいきなり沖縄だ。「書きます!」と鼻息だけは荒い。しかし書き始めて驚いたのは、わたしには暑さを表現する語彙が極端に少ないということだった。沖縄を書いているはずなのに、どこか肌寒い。それは今まで書いたどの本にもついて回った感想ではなかったか。
『光まで5分』では、前向きな失敗を成功に変えるべく、生き暮れるということについてずいぶんと考えた。結果、驚くような出来事は何も起こらず、そこにいた人たちがその時々でどんな選択をしたか、というお話になった。ツキヨもヒロキも万次郎も、どこかにいると信じられるので、どんどん原稿から「事件」が削れてゆく。日常も景色も変わらないままそこに在り続け、変化や事件は人の内側で起こっているようだった。カバーを眺めていると、公設市場で出会ったひとたちの笑顔と酒臭い息を思い出す。そして、ほんの少し楽になっている――。