[本の森 歴史・時代]『斗星、北天にあり』鳴神響一
[レビュアー] 田口幹人(書店人)
「一即一切」という言葉を深く考えさせられる物語に出会った。
鳴神響一『斗星、北天にあり』(徳間書店)を読み終え、「一即一切(いちそくいっさい)」という言葉に込められた意味を知った。
「一即一切」とは、一はそのまま多であり、多はそのまま一であるという華厳宗の教えである。私たち、小さな人間という存在は、大きな自然と調和して生きている。所謂、自然と切り離しては、私たちは存在することができないことを意味した言葉だと私は認識していた。仏教用語である以上、実在する体と自然の関係以上に、心と自然の関係における意味合いが強いのだろうと。
著者は、一人は森羅万象のすべてのものごととご縁で繋がっていることを強く打ち出す柱として「一即一切」という言葉を使い、一方で、海と暮らしを共にするのだという強い想いも、この言葉に託しているのだろう。
本書は、北斗七星のように北に輝く男と評され、秋田の地を一大都市へと発展させ、現在の秋田の礎を築いた安東愛季(あんどうちかすえ)の一代記だ。安東愛季は、長い間分裂していた檜山家と湊家の二つの流れを汲む安東氏を統一した。蝦夷との交易を管理してきた檜山安東氏と湊家の統一後は、北方交易だけではなく、北の海の通行における重要な役割を担うことにより、戦国の世において大名まで上り詰めた智将として知られている。
安東氏は、鎌倉時代後期から室町時代中期にわたって、日本海北部を完全に掌握していた一族だった。先代の死後わずか15歳で家督を継いだ愛季は、湊家を含めた安東一門にかつての力を取り戻すため、「みなと」を造ることから治世をスタートさせる。愛季が目指した「みなと」は、船の入る水路を指す「港」ではなく、たくさんの船が集まる場所であり、波止を含む陸の上の建物や道など、町を含めた場としての「湊」だった。その地に生きる民を海の水に、家臣を舟を漕ぐ船人に例えた「載舟覆舟(さいしゅうふくしゅう)」を旗印とした愛季の、海に対する並々ならぬ想いが伝わってくる。
湊建設に向け、入り江の調査に出掛ける場面がある。小鹿島(おがしま)の四之目潟(しのめがた)で濃い霧の中、海賊の俘囚となった愛季が出会った者たちの素性が明かされるシーン以降は、東北に住む者としてもうページをめくる手を止めることができずに、一気に読み終えた。
若くして家督を継いだ愛季が、東北一の湊と商業都市を築き上げることができたのは、森羅万象のすべてのものごとと繋がるご縁があったからだ。本書は安東愛季という智将の物語というよりも、愛季丸という船を漕いだ船人達の声を紡いだ物語といえるかもしれない。