『知られざるシベリア抑留の悲劇』
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知られざるシベリア抑留の悲劇 長勢了治(ながせ・りょうじ)著
[レビュアー] 米田綱路(ジャーナリスト)
◆待ち受ける過酷な運命
[評]米田綱路(ジャーナリスト)
北方領土問題をめぐって、日ロ両政府の交渉が続く。だが、視点を国後島(くなしりとう)と択捉島(えとろふとう)の先、北千島(きたちしま)へと向ける人は少ない。ここは一九四五年八月十五日以後、つまり“戦後の戦争”が続いた場所である。
特にその北端、占守島(しゅむしゅとう)の激戦でソ連軍の侵攻が遅れ、北海道の留萌(るもい)と釧路を結ぶ線までの占領作戦は、手前の北方領土で止まった。そうして身代わりのように、占守島を守った日本軍約一万四千名が、シベリアに抑留されたのだ。
そのうち約四千名は、オホーツク海の懐深くにある極北の港湾都市マガダンへ移送された。さらに数百から千キロ北方の、ソ連の囚人も「地獄のコルィマ」と恐れた収容所へ送られた者もいた。本書は彼らの運命を歴史の忘却から掘り起こした労作である。
シベリア抑留の記憶は、今も労働者にとって切実な「ノルマ」というロシア語に息づいている。生還した抑留者が持ち帰った言葉だ。
ソ連は極東の鉱山や建設現場などで日本人を働かせ、過重なノルマを強いた。シベリア三重苦と呼ばれた酷寒・飢餓・重労働によって、多くの抑留者が死亡した。マガダン地区だけで約二百人と推定されている。
極北で凍土の墓穴に埋められた死者は数知れない。生き残った者も、凍傷で指や足を切断した。しかも抑留されたのは軍人だけではなかった。約千六百人の民間人が二年にわたり北千島に留め置かれ、一部はシベリアへ送られた。著者は体験者の記録だけでなく、ロシア側の新たな資料にも当たって、生と死を分けた紙一重の実態に迫っている。
「死のマガダン」と呼ばれた囚人都市への交通手段は、もっぱら海路だった。コルィマは陸の孤島であり、ソ連の囚人は「島」と呼んで、本土へ帰るのを夢みた。収容所群島というソ連の形容は、決して比喩ではなかった。占守島で抑留された日本人はこの島へ送られ、ソ連の産業建設を支えた囚人労働の巨大システムに組み込まれたのである。
北方四島の先に、地続きの歴史を見る。本書はその史眼を磨くための一冊である。
(芙蓉(ふよう)書房出版・2160円)
1949年生まれ。シベリア抑留問題研究家。著書『シベリア抑留全史』など。
◆もう1冊
小熊英二著『生きて帰ってきた男』(岩波新書)。あるシベリア抑留者の軌跡。