【文庫双六】犀星も移り住んだ濃密な共同体“文士村”――梯久美子

レビュー

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犀星も移り住んだ濃密な共同体“文士村”

[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)

 魚をこよなく愛し“魚小説”をいくつも残した室生犀星。そういえば金沢に旅行した折、生家跡に建つ記念館で、犀星直筆の魚の画が展示してあるのを見た。

 幼い子供たちに宛てたハガキに描かれたもので、2匹の魚が並んでいる。1匹はおそらく鯛だが、もう1匹は何かわからない。いわゆるヘタウマの画で、独特の味がある。

 犀星は20歳のとき金沢から東京に出てきた。何度か帰郷と上京を繰り返したが、終(つい)の棲家となったのは東京の馬込である。

 10年間住んだ田端から越してきたのが昭和3年、39歳のとき。当初は家族で貸家住まいだったが、昭和7年に家を建てた。

 近所の小学校の校長に頼まれて作詞した校歌に、〈そのかみの貝塚よ/そのかみはわだつみ/いにしへは魚(いお)あつまり/魚もうたひけむ〉との一節がある(「大田区立馬込第三小学校校歌」)。大森貝塚も近く、大昔は海だったという土地の歴史をよみこんだものだが、〈魚もうたひけむ〉というあたり、いかにも魚好きの犀星らしい。

 当時の馬込には作家や詩人が多く住んでいた。膨大な資料と証言によって、かれらの人間模様を描き出したのが『馬込文学地図』である。

 始まりは大正12年、尾崎士郎と宇野千代のカップルが、当時の馬込村中井にあった納屋を140円で譲り受けて住んだことだった。竹の柱に茅の屋根、大根畑のまん中にあったこの住まいから、のちに馬込文士村と呼ばれる濃密な共同体が生まれる。

 住人は、広津和郎、萩原朔太郎、北原白秋、川端康成、山本周五郎、三好達治。少し離れたあたりには、村岡花子や高見順、日夏耿之介(ひなつこうのすけ)、子母沢寛、佐多稲子などもいた。

 夜を徹してのダンスと麻雀、恋に不倫に三角関係――濃密すぎるドラマに、頭がくらくらしてくる。こんな生活の中で、みな次々に名作を生んだのだから、昔の文士はタフだった。

新潮社 週刊新潮
2019年1月17日迎春増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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