『道標 東京湾臨海署安積班』
書籍情報:openBD
新春特別対談 今野敏×角川春樹
[文] ボブ内藤
「変わらない魅力」はつねに変化しながら作られる
角川 「安積班シリーズ」の初期の作品になぜ魅力を感じたのかをあらためて考えてみると、文体にあると思う。センテンスを短く切った、リズムのある文体で、海外のハードボイルド小説を思わせる雰囲気を感じたね。
今野 鋭い指摘ですね。実は当時、僕はロバート・B・パーカーの「スペンサー・シリーズ」やディック・フランシスの「競馬シリーズ」も愛読していたんですけど、どちらのシリーズにも共通しているのは菊池光さんが翻訳しているということ。菊池さんはジャック・ヒギンズの作品にも名訳がありますけど、その文体にはかなりの影響を受けていると思います。
角川 なるほど、海外の翻訳ものの雰囲気がずいぶん反映されているんだね。藤沢周平や池波正太郎といった時代小説の大家も、海外ミステリーをたくさん読んで作品に生かしていたというけど、それと同じなのかもしれないね。
今野 これは僕の持論なんですが、「87分署シリーズ」のような事件を集団で捜査する警察小説が日本になぜなかったのかというと、池波正太郎さんの「鬼平犯科帳シリーズ」という金字塔があったからだと思うんです。
角川 おもしろい考え方だね。鬼平シリーズは主人公の長谷川平蔵だけでなく、まわりの登場人物にも魅力的なキャラクターがたくさん描かれている。
今野 ですから、僕が「安積班シリーズ」で長編と短編を書き分けているのは、第二の鬼平シリーズを目指しているからなんです。
角川 鬼平シリーズは、関西に出張するときに新幹線の車内でよく読んでいたけど、本棚を圧迫するからそのたびに人にあげるか捨てるかしていて、何度も同じ本を買ってるんだよね(笑)。長編を読んでも、短編の緻密さが維持されていて魅力的だし、短編にも長編で構築された大河的なストーリーの流れが生かされていて、短編と長編、その双方が響き合っているんだね。
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角川 ところで、「安積班シリーズ」は警察小説だけれども、企業小説としての魅力もあると思う。
今野 そうですね。サラリーマンの読者が多いと聞いています。
角川 警察という組織は、企業体として見たら非常に保守的な組織だから、人間同士の軋轢も大きい。それがおもしろいドラマを生んでいる原因なのかな。
今野 そうですね。そういう意味で、僕は3年間だけですが、サラリーマンを経験したことがよかったなと思っています。上司と部下との関係とか、組織の一体感といったものは、取材するだけでは書けませんから。
角川 主人公の安積剛志は、「理想の上司」として描かれたキャラクターだよね。ところが、シリーズも回を追うごとに家庭では「理想の夫、理想の父親」になれずに離婚していたりする姿が描かれるようになって、キャラクターにどんどん深みが出ていくね。
今野 安積は45歳という年齢設定で、第一作からずっと年をとらないことになっているんですが、当たり前だけど、作者の僕は普通に年をとっていきます。すると、どういうことになるかというと、自分の年齢が安積の年齢を追い越してしまうことになるわけです。
角川 作品で言うと、舞台が神南署から臨海署に戻った『残照』あたりから今野と安積の年齢の逆転現象がはじまるわけだね?
今野 そうですね。30代のころの僕にとって、安積は憧れの渋いおじさんというイメージでしたが、そのあたりから等身大の中年男として見るようになりました。そして、60歳を超えた今は、まだまだ未熟な部分を残した男のように見えるときもある。同じ登場人物を描き続ける醍醐味だと思いますね。
角川 シリーズが進むごとに文体が変わっていくのは、当然の流れというわけだね。
今野 これは落語家さんに聞いた話なんですが、「あの人の芸は変わらないね」と評価されている名人の芸は、細かく分析すると目まぐるしく変化しているんだそうです。
角川 料理もそうだよね。いつも変わらない老舗の味わいというのは、時代ごとに変化する味の嗜好とか、季節に応じた食材の変化に沿って進化しているものだよ。
今野 作家についても、同じことが言えるのでしょうね。
角川 「安積班シリーズ」は何もない人工的な都市であるベイエリア、そして渋谷署と原宿署の間に設けられた神南署に舞台を移し、また新設されたお台場の臨海署に戻っていく。そこではつねに「街」というものがリアルに描かれていて、その街に息づく人間のドラマが語られている。今回、シリーズ全作を読み返して、その魅力に改めて気づかされたね。
今野 いやぁ、光栄です。
角川 エド・マクベインは「87分署シリーズ」を49年書いて、56作品を遺した。それを考えると、「安積班シリーズ」の30周年というのは今野にとって単なる通過点に過ぎないと思う。是非、50周年をむかえるときまで続けてほしいね。
今野 そうですね。このシリーズは僕のライフワークだと思っていますので終生、書き続けていきたいと思っています。そのとき、僕は83歳。50周年記念作品は、是非とも春樹社長の手で世に送り出してください。
角川 今野が83歳なら、俺は96歳か。編集者として生涯現役と決めているので、まだバリバリ働いていると思う。喜んで引き受けるよ(笑)。