重量級の新たな傑作が生みだされた

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木曜日の子ども

『木曜日の子ども』

著者
重松 清 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041028322
発売日
2019/01/31
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

重量級の新たな傑作が生みだされた――【書評】池上冬樹

[レビュアー] 池上冬樹(文芸評論家)

 重松清といえば家族愛や友情など人間的で温かな物語を得意とする作家だが、実は慄然とする小説も書いている。少年が家庭崩壊、性、暴力、殺人を経験する『疾走』だ。少年の地獄めぐりを二人称形式で描いた小説で、従来の重松清らしさが全くない。人生讃歌を情感豊かに謳いあげてきた重松清の小説なのかと思うほど、どこまでも暗く、悲惨で、何よりも暴力的だった。しかし根源的な生の暗部を深く凝視し、人は何故生まれ、何故生き続けなければいけないのかを見すえ、しかもほとんど神話の域にまで高めていて圧倒的だった。重松清の過去の名作たちがかすむほどの衝撃に充ちた作品だったが、本書『木曜日の子ども』もまた『疾走』なみに鋭く激しい物語である。

 四十二歳の清水芳明は、妻の香奈恵と中学二年生の息子の晴彦とともに、旭ヶ丘のニュータウンに引っ越してきた。そこでは七年前、少年犯罪史上に残る無差別殺人事件が起きていた。中学校二年一組の給食の野菜スープにワルキューレという毒物が混入されて、九名が死亡、二十一名が入院、うち三名は一時昏睡状態に陥る重症だった。

 引っ越してきたのは、前の学校で晴彦がいじめにあい、自殺を図ったからである。晴彦は香奈恵の連れ子で、清水はいまだに“晴彦くん”と呼んで遠慮がある。心機一転、旭ヶ丘で新生活をはじめるつもりが、住民たちの反応が違っていた。晴彦が、七年前の事件の犯人、上田祐太郎少年と瓜二つだというのだ。やがてニュータウンではあいついで怪死事件が起きる。ネットでは、上田少年が町へ戻ってきて、ウエダサマとして、一部のあいだでカリスマになっているという話だった。

 清水は、当時の事件を取材した沢井というルポライターと知り合い、一緒に真相を突き止めようとするが、それは世界の終わりの始まりでもあった。

 特筆すべきはミステリとしてとても面白いことだ。七年前の犯人である上田少年は本当に戻ってきているのか、怪死事件の背景には誰がいて、何の目的で行なっているのかが追及されていく。つまりフーダニットとホワイダニットの興味で読者をひきつけるのだ。実にテンポよく、次々と怪しげな人物たちが清水(小説では「私」)の前にあらわれ、謎めいたことをいい、窮地へと導いていく。サスペンスがみなぎり、意外な展開をたどり、どんでん返しもある。重松清はミステリ作家だったのか? と思うほど巧みである。

 だが、もちろん単なるミステリに収まるはずもなく、だんだんと父と息子の関係や、世界の終わりを求める指導者たちとの議論がはじまり、白熱化していく。印象深いのはある少女の言葉だろう。無差別殺人を犯した少年がなぜ“ウエダサマ”として崇められているのかといえば、「たった一人の個人的な怨恨や憎悪で世界は滅ぼせるんだっていうことを、世界はこんなに弱くてもろくて、世界を滅ぼすなんて簡単なんだってことを教えてくれた」からだという。もはや倫理や道徳などの通用しないところに少年少女たちは生きている。自ら命をたつこと、命そのものが世界に対抗する武器になりうるのではないかといった議論さえ繰り返されて、大人の清水はもがき苦しむ。

 重松ファンなら、子どものいじめを直視した『ナイフ』が、いちだんと先鋭化し、エスカレートした形であらわされたと感じるかもしれない。いじめにあう子どもたちが一層出口を失い、無差別殺人犯の教えに心を動かされて不穏な行動に走り、それを見つめる親たちもまた追いつめられて、死のとばぐちにたたされてしまう。そしてそこに待っているのは究極の選択だ(どういう選択かは読んで確認してほしい)。

 親とは何か、子どもとは何か、親と子の真の結びつきとは何なのかを、重松清はあらためて本書で鋭く激しく問いかけている。いままでにない熱量にみちた大胆な設定を用い、叩きつけるような何ともエモーショナルな筆致で描ききっているのだ。おそらく体をわななかせながら読む親も少なからずいるだろう。それほど強烈な傑作である。

KADOKAWA 本の旅人
2018年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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