仮想通貨を題材に“個人の溶解”と“世俗の屈託”を描く芥川賞受賞作
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
上田岳弘は“個人の境界がほどけた総体としての意識”や“時空を超えた神の視点”を、高度サイバー社会の像として繰り返し書いてきた。
人間は技術の進歩で「全知」にはなれるが、知ったからといって「全能」にはなれない。全知のもたらす無力感への憂鬱が、上田文学には通底している。とはいえ、作者はマクロ視点から見れば「仕様もない」俗世の惑いや屈折に寄り添って描くようになった。
「ニムロッド」とはバベルの塔の建設者の名でもある。本作の題材は仮想通貨ビットコイン。その創設者「中本哲史」と同姓同名の三十代男性が主人公だ。彼はネットサーバー会社で、仮想通貨の「採掘」任務にあたるが、業務過程は背景幕となって物語のアナロジーとして機能し、年上の恋人との付き合いや、鬱を患った会社の先輩「ニムロッド」こと「荷室」とのやりとり、そして「駄目な飛行機コレクション」を解説するメール、人間の王「ニムロッド」が下界を見おろす荷室による小説などが、前面に描かれる。
バベルの塔のモチーフ、小説家志望の友人、作中作の挿入、感情を伴わない水のような涙、ネットからの引用――本作が『塔と重力』と双輪をなすことは疑いようがない。
仮想通貨とは、人々の欲望が生みだした現象にすぎず、在ると信じる者たちの想念と取引記録(ブロックチェーン)に支えられている。それは全く小説という虚構と似ているではないか。と思いつつ読み進めると、ずばり「それって小説みたいじゃないか」という言葉に出会った。
主人公の名が実在人物と同一であることにも、個人の代替可能性は仄めかされているが、荷室は、「すべては取り換え可能」になり、人類が一つに溶ける世界を作中作に書く。こうした茫乎(ぼうこ)たる観念的主題のもと、本作でも世俗のからくりに出し抜かれる主人公が空を見あげるラストに、テーマとコンテンツの対照構造がくっきりと記されている。