『現代文化論――新しい人文知とは何か』(有斐閣アルマ)

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現代文化論

『現代文化論』

著者
吉見 俊哉 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784641220768
発売日
2018/11/06
価格
2,160円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『現代文化論――新しい人文知とは何か』(有斐閣アルマ)

[レビュアー] 田中東子(大妻女子大学文学部准教授)

 本書は、メディア文化論の第一人者の手で古典から現代までの文化理論を「上演としての文化」という視点に基づいて整理し、人文学の新しい基礎教養である〈文化〉について読者に伝えようとするものである。4幕14場から成るドラマ形式で構成された本書は、ひとつの舞台を見ているような気分で読み進めることのできる遊び心に満ちた教科書だ。

 『現代文化論』とタイトルがつけられているが、本書は古典から近代までのさまざまな文化理論の系譜学をその射程に収め、文化の理論を編み直している。ダイレクトに「現代」の文化を扱うだけにとどまらず、主に18世紀のヨーロッパにまで立ち返り、近代以降のその成り立ちのプロセスを示すことで、むしろ本書は「現代文化」の特徴をくっきりと浮かび上がらせることに成功していると言えるだろう。

 書評においては通常、対象となる書籍が書かれるに至った学問的背景について解説しなければならない。しかし、18世紀以降の〈文化〉概念の成立とその展開から書き起こしている本書は、それ自身が現代文化を論じる学問的背景を解説してくれているので、その点については割愛する。

 その代わりに、構成上の特徴から本書の内容を見ていくことにしよう。

 4幕からなる本書の構成は、演劇の世界とパラレルに構造化されているように見える。〈文化〉という概念が立ち上がり、その概念が近代以降の日本社会に導入されていく流れを俯瞰してみせる第1幕と第2幕は、文化を上演するための劇場を建造する役割を果たしている。

 特に、ポップカルチャーの研究が「どのような意味で」(7頁)文化の研究であると言えるのかを考えていくために、第1幕の前半では近代における〈文化〉概念の成立過程を大胆かつ繊細に検証し、後半では「都市文化の形成と階級に基づく文化」、「コミュニケーションとしての文化」という2つの視点に基づき、近現代の文化の発展とその研究史を説明していく。

 どっしりとその居住まいを構えた劇場が、上演されるパフォーマンスを長期間にわたって支えているように、本書の最初の二幕で説明される〈文化〉概念の成り立ちと、それを分析するための諸概念は古びることなく――古びてしまった部分には増改築を施しながら――後半で論じられる〈文化〉の研究を支えていくのである。

 現代文化を論じるための主要なアプローチを概観する第3幕は、舞台を照らすスポットライトやパフォーマンスを華やかに彩る音響効果のような役割を果たしている。第3幕では、最初の2幕に比べると、より「現代」に近接した議論が展開されていく。

 本書において「現代」という時間軸は三つの層に分類されていて、ひとつめは20世紀初頭の大都市中心の階級社会、ふたつめは第二次世界大戦前後のアメリカ化する大衆社会、みっつめは1990年代から21世紀にかけてのグローバル化と新自由主義の台頭する時代である。

 第3幕では、このうち3番目の時間軸、すなわちグローバル化と新自由主義の跋扈する時代において、文化をまなざすために必須の視点が選ばれている。

 演出方法に流行り廃りがあり、舞台技術が時代ごとに革新されていくように、第3幕での議論は、第4幕で上演される文化を現代的な切り口から意味付け、その今日的で新しい見え方を示す視点を与えてくれる。

 2010年代後半の地点から現代の〈文化〉を照らすものとして、ここでは〈文化〉を資本そのものとして捉える視点、記号的差異の集合として捉える視点、越境するものとして捉える視点、ジェンダーとの関りにおいて捉える視点の4つが提起されている。おそらく20年前の筆者の論考では異なるアプローチがより重要視されていたはずだし、10年後であれば、また別の切り口が提示されるに違いない。個人的には、ポストフェミニズムと新自由主義の共謀関係が問い直されている昨今において、4つのアプローチのうちのひとつにジェンダー研究が選ばれたことの重要性を強調しておきたい。

 第1幕から第3幕まで、一見すると理路整然と社会学や文化研究にまつわる教科書的な知が配置されているようにも見える。しかし、実は本書には、論の調和を乱す声がこだましている。それは、第2場「遊びから文化へ」で示される、攪乱や無秩序なものとしての文化という視点である。筆者自身もあとがきに当たるカーテンコールで述べているように、第2場はその前後の教科書的な〈文化〉論を読み解いていく際にカギとなる思考方法が挿入される重要なパートとなっている。

 ここでは、ホイジンガの〈遊び〉論、カイヨワによる遊びの四類型、バフチンのカーニバル論などを軸に、文化生成の淵源にあるのは日常世界から超越・離脱する〈遊び〉や〈カーニバル〉の攪乱的な要素であると示されているのである。筆者が引用するホイジンガの言葉のとおり、「文化は原初から遊ばれるものであった」(108頁)のであり、このフレーズはさまざまに形を変え、繰り返し顔をのぞかせている。

 この〈遊び〉という補助線が読み手の頭の中に導入されることで、本書における〈文化〉は無秩序を調教し、人格的陶冶のプロセスとなり、画一化を図り、国家やその他の枠組みへと従属されるものとしてまとめられそうになる寸前に、そこから解き放たれていると気づくことになるだろう。

 〈遊び〉に端を発する〈文化〉という第2場で提示された主題は本書の各所に亡霊のようにつきまとう。支配の道具やイデオロギーの喧伝装置や資本を膨張させるエネルギーに堕すぎりぎりのところで、筆者は〈文化〉を「軋轢や抗争、革命と反動を含む」(297頁)ものに変えていく潜勢力を秘めたものとして描き出している。

 労働者階級の文化は、ブルジョワジーの文化より劣った被支配的な文化としてとらえられるのではなく、それとは異なる仕方で編み上げられた別の価値や経験としてとらえられる。民衆文化や大衆文化は政治性のない受動的なものではなくかれら自身の手による主体的かつ創造的な新しい文化表現となる。コミュニケーションとしての文化について語る際には、意味のずらしや誤解による創造を生み出すディスコミュニケーションの文化という視点がさしはさまれ、文化帝国主義論のようなグローバルな同質化を強調する議論には、「各々のローカルな文脈が外来の力を土着化していく作用」(180頁)を指摘したアパデュライの離接的なフローがあることを思い起こさせる。

 前半の二幕が設えた舞台の上で、ホイジンガはレイモンド・ウィリアムズを演じ、鶴見俊輔を演じ、アルジュン・アパデュライを演じなおしながら、ひとつの秩序へと収斂していこうとする〈文化〉の記述に、必ず破断点をさしはさむのである。

 さて。最後のパート、第4幕では、いよいよ現代文化の様々な現象が論じられる。「ネットワーキング」、「パフォーマンス」、「観光/上演」、「アーカイビング」という四つの場面から切り取られ、解説されている第4幕でのそれぞれのテーマは、舞台上で演じられる演目やパフォーマンスに例えることができるだろう。筆者はここで、ネット社会、カラオケ、コスプレ、観光、ミュージアム……といった様々な現代文化の現象を取り扱う。

 劇場=学問的な文脈や理論史は長期的なスパンで捉えるべきものであり、そう簡単に変えることはできないが、演目=現代のポピュラー文化の諸相は短期的なスパンで、入れ替えることも可能だ。したがって、第4幕で上演される演目として、(コンサート会場で声を出して騒ぎながら映画を見る)応援上映や(アニメや漫画の舞台を訪れる)聖地巡礼、ゲーム実況などの現象を挙げ、本書の議論を参考に分析してみることはたやすいだろう。

 これら現代文化の特徴は、新しいメディア技術によって可能になった「〈客席〉と〈舞台〉の反転」(250頁)としてとらえられる点にある。ついに演じ手として舞台に上がった私たち。けれども第4幕は、第3幕での議論と照らし合わせて注意深く読まなければならないだろう。私たちのパフォーマンスによって織りなされる現代文化が、グローバル化と新自由主義のもとでどのように搾取され、再編成されているのか。こうした疑問については、今後さらに追及していく必要があるかもしれない。

 〈文化〉をめぐる議論を時間的にも理論的にも積み上げるという筆者による試みの意義と重要性については、第1場「文化とは何か――ポップカルチャーを学びたいあなたへ」の冒頭ではっきりと示されている。

 著者によると、現在、日本のポップカルチャーを勉強したい国内外の学生は増えている。しかし、その多くはピエール・ブルデューの「文化資本」概念やスチュアート・ホールの「エンコーディング/デコーディング」論など文化研究の定番の理論を公式的に当てはめて型通りの分析を行うか、表層的な文化現象に興味関心を抱くばかりで研究としての方法意識を欠いた浅薄な議論しか生み出せていないという。

 特に後者の点については、私自身も日々、教育活動を行いながら強く感じている点である。型通りで表層的なものになりがちな文化の研究を、講義や演習を通じて学生たちにどのように諸理論とのつながりへと導いていくことができるのか。

 本書の読み手が第1幕から第3幕までに連なる多くの知識や視点を無視して、第4幕で扱われている現象しか研究の対象にしないのであれば、それはただ単に稽古場でジャージ姿のままパフォーマンスをしているようなものにしかならないだろう。

 大劇場でスポットライトを浴び、素晴らしい音響のなかで演じることができるようになるかもしれない役者=学生を、ジャージ姿のまま狭い稽古場で踊らせていても良いものだろうか?

 著者の博覧強記な知識に基づく〈文化〉の定位と〈文化〉にアプローチするための様々な視点を学生たちと学ぶことで、おそらく文化研究に携わる多くの教員たちが抱えているこの教育上の逡巡は解決されるに違いない。若い学生たちとともに本書を読むという体験は、ヴェテラン演出家による円熟した舞台を観るのと同等の歓びを与えてくれることだろう。

有斐閣 書斎の窓
2019年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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