読了後はコーヒーが飲みたくなる一冊
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
【前回の文庫双六】「現代エンタメを支えた片岡義男の作品群」――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/563715
***
片岡義男といえばコーヒー。近刊『珈琲が呼ぶ』も話題になった。この黒褐色の飲料つながりということで、獅子文六の小説を取り上げよう。
ヒロインの坂井モエ子には特技がある。彼女の淹れるコーヒーは、得(え)も言われぬすばらしい味わいという設定なのだ。新劇の女優だったのがテレビ・タレントに転身。もう若くはなく、特別美人でもないけれど、好感度抜群のキャラクターで人気を博している。
当時、登場したばかりの「即席ラーメン」の広告にも出てギャラを稼ぎ、年下の男を養っている。男はテレビなど軽蔑する、おフランスかぶれの貧乏演劇人だが、モエ子は彼に尽くすのが嬉しくてたまらない。朝はもちろんおいしいコーヒーを淹れてやる。ところがある日、彼は一口飲むなり「まずい!」と言い放った。
なぜ突如、コーヒーの味は落ちてしまったのか。そんな謎から始まって、モエ子の人生の一大転機が快調に、愉快に綴られていく。
もともとは1962年から63年にかけて新聞に連載された作品である。「もはや戦後ではない」といわれて数年後。人々の暮らしがさまざまな嗜好品に彩られていく、そのシンボルの一つがコーヒーだった。モエ子は「可否(かひ)会」なる同人会に所属している。明治21年に中国人が開業した「可否茶館(かひさかん)」というのが、日本最初のコーヒー店なのだという。
そんなうんちくも交えながら、コミカルかつポップな味わい優先で終始、軽やかな語り口がお見事。可否会員が「獅子文六みたいな、古稀(こき)になっちゃア、もうオシマイだが」などと言う場面があるが、文体は少しも年寄り臭くない。
ところが巻末に併載の文章では、著者が連載中いかに辛かったかを吐露していてびっくり。コーヒーを飲みすぎたせいか胃をやられ、不眠症にもとりつかれ「コーヒー小説だけは、もうコリた」。でもこの作品の読者はだれしも、コーヒーが飲みたくて仕方なくなるのだ。