五木寛之×泉麻人・対談 トリローがいた時代

対談・鼎談

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五木寛之×泉麻人・対談 トリローがいた時代

[文] 新潮社

泉麻人さんと五木寛之さん
泉麻人さんと五木寛之さん

戦後の文化史に大きな足跡を残した三木鶏郎。いまや直接知る人も少なくなった巨人とその周辺。

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泉 いま三木鶏郎さんの評伝みたいなものを書いていまして、五月に新潮選書で出す予定なんです。野坂昭如さんはトリローさんのマネージャーをしていたことがあるので、エッセイに当時のことが細かく書かれてますね。

五木 野坂さんは小説家だから、面白くしようとして脚色が多いです(笑)。三木さんの周辺にいた人たちの回想を読んでも、どうも違うよなあということがありますね。でも、ぼくも物忘れが多いので人のことは言えません。そのへんの食い違いはマニアの愉しみということにして(笑)、三木鶏郎さんは戦後の芸能史、音楽史、宣伝史に大きな足跡があった人なのに、最近、ちょっと忘れられているから、きちんと書き残されるのはとても大切なことだと思いますね。

泉 野坂さんは金銭面がドンブリ勘定だからマネージャーは失格になって、放送作家としてトリローさんのところに残ったわけですね。四谷に「凡天寮(ぼんてんりょう)」というトリローグループの仕事場があって、そこで野坂さんは若い放送作家たちにコントの書き方を教えていたと。「(前略)この凡天寮の一員に、ぼくと入れちがって、のぶ・ひろし、すなわち五木寛之があらわれ、もう少し辛抱していれば、ぼくは五木にコントを教えたという光栄を担えるところであったのだ」(『風狂の思想』)と書かれています。

五木 それも脚色です(笑)。

泉 当時、野坂さんと面識はなかった?

五木 ええ。彼の当時のペンネーム、阿木由起夫という名前を聞いたことはありましたが。ぼくは三木さんのところで働いてはいたけど、凡天寮とは関係がないんですよ。野坂さんや永六輔さん、いずみたくさんたちは、凡天寮ができるより前、市ヶ谷に三木さんが作った「冗談工房」(昭和31年設立)以来のメンバーです。凡天寮はこの人たちの流れをくむ仕事場です。
 ところが、ちょうどマスコミの勃興期で仕事が増えてきたものだから、近代化しなくちゃということで、三木さんは新しく銀座に「三芸社」という事務所を作った(35年設立)。ぼくはそっちに出入りしていたんです。銀座の方はもっぱら広告、CMなどを主にやっていました。

泉 三芸が入っていたのは新橋寄りにあった第2千成ビルですよね? 東洋郵船時代の横井英樹が安藤組に銃撃された(33年)現場でもある……。

五木 そうです。同じトリローグループといっても、銀座組と市ヶ谷・四谷組はあまり直接の交流はなかった。
 ぼくは三芸の正式な社員というのでもなかったんです。三木さんの冗談工房はこの頃までに音楽工房、TV工房、CM工房――これが三芸――という三つの工房に分かれて、そのアーティスト集団に自分は所属している、という意識でCMソングの作詞などの仕事をしていました。テレビの台本も書いていましたが。

泉 今は「カフェーパウリスタ」が入っている長崎センタービルの場所にあった第2千成ビルですが、あそこ――三芸は六階――へ毎日通われていたわけでもないんですか。

五木 毎日ではないけど、かなり入り浸っていました。仕事は自宅でなく、あそこでやっていましたからね。ぼくみたいなフリーの浪人がうじゃうじゃいました。作詞の吉岡治さん、伊藤アキラさん、台本作家だと野母祐さん、小川健一さんとかね。地下にあった喫茶店を覗くと、岸洋子さんとか天地総子さん、安田祥子・章子(由紀さおり)姉妹……いろんな人たちがたむろしてて、なかなか活気のあるビルでした。近いから、電通や資生堂なんかの関係者もいたり。「ウエスト」なんかにもよく行きましたね。

泉 銀座ウエストはもうあったんですね。電通は山川浩二さんが三芸担当で。

五木 そう、よくご存じで。

泉 僕は大学時代、「宣伝会議」が主催していた広告塾の山川さんの講座に通っていたんです。その時は知りませんでしたが、その後電通の最初のトリロー番が山川さんだったと知って、今度の本で改めてお話を伺いました。

五木 そうでしたか。

作詞家のぶ・ひろしの時代

泉 五木さんは社員じゃなかったということは、ギャラは出来高というか歩合ですか?

五木 たしかCM一本やって九千円でした。

泉 昭和三十年代半ばで九千円なら……。

五木 悪くはないよね。凡天寮でコントが採用されると一本三百円って聞きましたけど。

泉 ええ。書き手のクラスによって多少違ったらしいですが。五木さんがトリローさんのところへ行かれたきっかけは何だったんですか?

五木 三芸の制作面を基本的に仕切っていた大森昭男さんという人がいたんです。

泉 去年亡くなられましたね。70年代、80年代のカッコイイ音楽を使ったCMはだいたい大森さんの制作でした。

五木 その大森さんのアシスタント・プロデューサーをやっていた加藤磐郎君というのが、音楽の方で、ぼくの知り合いだったんです。彼が、ぼくは交通関係の業界紙の仕事をやっていることを承知で、ちょっと手伝ってくれないかと。それで業界紙をやりながら三芸に出入りし始めて、そのうちにそっち専業になっちゃった、という成り行きですね。

泉 銀座のビルでトリローさんと会われたりは?

五木 ご挨拶したことがあるくらいで、あんまり会わなかったです。トリローグループの本家というか、市ヶ谷グループと、分家の銀座グループは何となく対立している感じがあってね。ぼくらから見ると本家は古めかしい連中って感じで、むこうはもの作りの方だから、「あいつらはコマーシャルの連中だ」と、やや上からな感じでぼくらを見てたな。ひがみじゃないと思いますよ(笑)。野坂さんは元はあっちにいたんだ(笑)。
 でも、彼らの見方にも一理あるんです。ぼくは三芸でCMソングにずいぶん関わりましたが、それは〈ものを作る〉という感覚とはやっぱり違うんですね。作詞しても、スポンサーは直すし、代理店も直すし、要求があれこれうるさくて、最初に提出したのとは似ても似つかない詞になることはしょっちゅうでした。

泉 その頃の五木さんが関わったCMは――。

五木 ぼくはどちらかと言うと、単品よりも企業CMが多かった。企業ソング、社歌、応援歌なんかを含めてね。神戸製鋼、長谷川工務店、東京トヨペット、レナウン、日本石油……。『埼玉県子どもの歌』とか『国産品愛用運動の歌』とかも書きました。戦後の混乱が収って、電通などいわゆる広告屋さんから伸びていく時代で、一つのキャンペーンを張っていくような仕事もよく頼まれましたね。

泉 CMソングって、今はメロディー、曲が先に出来ているのが当り前になっていますが、当時も曲に詞を嵌め込んでいく形ですか?

五木 いや、だいたい詞が先でした。音楽の方は音楽としての新しさは必要だけども、やっぱりCMだから商品名をいかに印象付けるかが大事だという考え方でした。でも、さっき言ったように、大幅に変えられもするわけです。

泉 詞が先なだけに、イジられるわけですね。

五木 そう。会議の席上で何度も試聴して、いろんな意見が出て、「ここは、こうなりませんか」みたいな形でどんどん変わっていく。

泉 そんな欲求不満が溜まって、クラウンレコードに移られたんですか?

五木 ちょうどコロムビアからレコード部門が独立して、クラウンが生まれたんです(昭和38年)。その時に松本さんというディレクターがいて、「これからの音楽はこういうものじゃないか」とCMソングに注目していた。それで、ぼくに「専属作詞家にならないか」とスカウトを掛けてきたんです。ぼくも、CMだけじゃなくてテレビやミュージカルの台本も書いていたし、クラウンがどういう会社になるのかもよく分からなかったけど、取りあえず〈普通の歌〉が書けるんだったら、そっちへ行くか、と。
 もともとクラウンに移る前から、ラジオ関東の番組で自分のやりたい歌を作って流したりはしていたんです。ぼくが作詞して、大森さんが育てていた安田姉妹とか、いろんなアーティスト、作曲家の方々にもほとんど無給で付き合ってもらって、月に一曲、「今月の歌」なんてのを作っていました。
 大森さんが、何かのCMを録った時、そのバンドを残して、「ちょっと悪いけど、これやってくれる?」ってスタジオ代とバンド代を浮かしてくれたりね。そうやって、みんなでCMソングで飽き足りない部分を解消しようとしていたんでしょう。松本ディレクターはそんな番組も聴いてくれていたんじゃないのかな。

泉 「今月の歌」はラジオで流れておしまいですか?

五木 そうです、ほとんどはひと月流れておしまい。ラジオ関東の番組を使って、CMソングへの欲求不満をいわば同人雑誌的に解消してたわけですね。

泉 ラジオ関東ということは、横浜まで行くんですか。

五木 ええ、あの野毛山のスタジオです。ラジオ関東、ラジ関って、できた時はものすごくとんがった人気のある局でしたよ。

泉 はい。『昨日のつづき』とか。

五木 大人気番組でしたね。永六輔と大橋巨泉と前田武彦と、冨田恵子って女の人。まだフリートークの番組って珍しかった時代ですから。

泉 僕が中学生で深夜放送を聴き始めの頃もまだやっていましたよ、『昨日のつづき』。

五木 『森永エンゼルアワー』とか『ポート・ジョッキー』とか、横浜らしい番組をどんどん作って若い人たちの支持が多かった。

泉 僕はなんといっても大瀧詠一の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』でした。

自由な時代の後で

泉 五木さんのそもそものラジオ体験というと……終戦時ぐらいが中学生で、平壌にいらしたでしょう?

五木 ラジオの記憶というと、やっぱり昭和22年に福岡へ引き揚げてからですね。NHKのラジオドラマの『えり子とともに』とか……。

泉 それこそトリローさんの代表作の一つ、『日曜娯楽版』(NHK 昭和22~27年)なんかも?

五木 それは聴いていました。あの当時の感じとしては、すごく先進的だったと思う。

泉 その頃、『娯楽版』にコントの投稿まではしなかったんですか。

五木 それはしなかった。ぼくが早稲田に入って上京したのは昭和二十七年ですが、学生たちはトリローさんの名前を当然のように知っていました。「僕は特急の機関士で」(昭和25年晩秋から『日曜娯楽版』で流れたヒット曲)などのトリロー・ソングはみんな歌えたんじゃないかな。

泉 その頃、トリローさんをどんなふうにご覧になっていましたか。

五木 どうだったろうね。後からの感想になって、さっきの話と重なるけども、三木さんが三芸にほとんど来なかったというのは、ひょっとしたら内心、(ちょっとこれは違うんじゃないか)と思っていたかもしれません。つまり、三芸はトリローグループの傘下ではあるけれど、企業として電通や資生堂などの大会社と組んで商業主義的にやっていました。でも、本来のトリローグループはもっとサークル的、同人雑誌的な気分のものですよね。ですから三木さんはどちらかと言うと、自分で楽しめることを周りを巻き込みながらやっていく人だったと思う。ビジネスでがりがり伸ばしていこうって考えはあまりなかったんじゃないかと思います。

泉 トリローさんの本分も気持ちもやはり市ヶ谷グループの方で、三芸は少し違う方向だった、と。

五木 そんな気がしますね。それと、『日曜娯楽版』が政治風刺、世相風刺を盛んにやって、政府に睨まれて、『ユーモア劇場』(27~29年)になった。それでも造船疑獄をからかったりし続けたので、大人気番組なのに潰されてしまいましたね。三木さんを衆議院に喚問するなんて話も出たから雲隠れした〈三木鶏郎失踪事件〉というのも起きた。
 あのへんで三木さんは嫌気がさして、第一線から撤退したんじゃないかな。政治がらみの部分は三木さんより、むしろプロデューサーだった丸山鐡雄さんの個性だった気がしますけど。

泉 ええ、ガンテツさん。丸山眞男のお兄さんですね。

五木 ぼくは丸山眞男さんより鐡雄さんの方に興味があるんです。お父さんが丸山幹治という、〈白虹事件〉で長谷川如是閑たちと一緒に朝日新聞を辞めたジャーナリスト。息子さんが三人いて、末っ子も評論家です。そういう系列の一家なんですね。

泉 吉田内閣がトリローさんや丸山さんを目の敵にしていた頃、朝日新聞はけっこうトリローさん側についていたようですが、世間の見方はどうだったんでしょう?

五木 あの当時は、もちろんネットもない、テレビすらないわけで、ある事象に対する世論ってものがあんまりなかったんですよ。
 結局、レッドパージなどもあって、戦後すぐの時期にあった自由な雰囲気がなくなっていくわけです。ちょっととんがった物書きたちも、次第に退潮というか方向転換していった。戦前、プロレタリア運動の弾圧があって、でも小林多喜二のように玉砕するのでもなく、さりとて転向するわけでもなく、〈ヴ・ナロード(民衆の中へ)〉という形で、民芸運動を推進したり、新民謡を全国各地で作ったりした文化人たちがいました。そういう動きと戦後の一時期の傾向は似てるような気もします。

泉 たしかにトリロー音楽は新民謡的なところもありますよね。宮城まり子の「毒消しゃいらんかね」なんてその典型。

五木 永六輔さんも、いずみたくさんと労働歌を書いていた時代があったでしょう。後で全国各地の温泉を回って新民謡みたいなものを作っていった。才能のある敏感な人たちが、戦後のある時期以降一斉にサブカルチャーの方へ走ったわけです。その背景は、単に好奇心だけではなくて、政治的敗北とまでは言わないけれども、それぞれが〈大衆への共感〉を大切にして、捨てられなかったということがあるんじゃないかと思う。

トリローの流れは

泉 トリローさんも政治に巻き込まれてしまったと思っていたでしょうね。確かにある時期以降は、糖尿病もあって、「もう、いいや」みたいになったのかもしれません。あと、三芸を任せていた社長が社員に殺されるという事件があって(昭和39年)、結局それで三芸を閉めてしまいます。トリローさん、あれは精神的にショックを受けたそうですね。

五木 ぼくはクラウンに移った後の出来事だったので、新聞記事で知っただけですけど。あまりいいイメージの事件じゃないよね。

泉 五木さんが「戦後すぐの自由な雰囲気がなくなった」という、いわばビジネスライクな時代になってから三芸へ入ってきた人たちによる事件でしたからね。三芸が儲かっているからこその事件で、いよいよトリローさんとしたらやる気を喪ったかもしれません。

五木 今、振り返ってみて、三木さんを頂点とするメンバーが活躍していた時代は、本当に過去の歴史ですね。みんな、いなくなりました。

泉 でも、トリロー全盛時代の後、例えばクレージーキャッツは『日曜娯楽版』の冗談音楽の流れから来ているでしょうし、それぞれの時代に合わせて、トリローイズムは発展していったのでしょうね。

五木 三木さんの仕事の影響を受けた人は、直接間接問わず、扇状に広がっていったと思います。あの人、東大の文学部じゃなくて……。

泉 法学部です。『三木鶏郎回想録』を読んでも、クラシック音楽と映画の話は出てくるけど、あまり本や作家の思い出は出てこないから、文学趣味はあまりなかったかもしれません。

五木 そのくせ、トリローグループから野坂さんやぼくみたいな小説家が生まれたことは喜んでくれていたそうです。ぼくは三木鶏郎という人の流れをくんでいる自覚をずっと持ってきましたね。
 ぼくもいい年齢だから、三芸時代も含めて、これまでに作詞してきた音楽作品をまとめようと思って、こんど『五木寛之BOX』(日本コロムビア)というCDとDVDのミュージック・ボックスを出すことにしたんですが。当時のCMソングや、さっき言ったラジオ番組用の歌なんかも全部入れてね。特に初期のものを改めて聴くと、ぼくも三木さんの系譜にいるんだなあと思いますよ。当時の仲間の伊藤アキラさんとの対談もはいってます。

泉 今日お会いするので、ネットでいろいろ調べていたら、僕が熱心に見ていた『海底大戦争』(イギリス製の人形劇。日本ではフジテレビで39~40年放送)のテーマ曲の詞は五木さんが作られたんですね。♫飛び交うミサイル、吹っとぶ陰謀~ってやつ。クラウンに移ってからのお仕事だと思いますが。

五木 そうです。あれも音源あったから今度のボックスに入れました。アニメソングの走りみたいなものですね。

泉 トリローさんとは関係ない話になっちゃいますが、それはすごく愉しみです。

新潮社 波
2019年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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