結末の解釈も一つではない芥川賞小説の興味深い“話法”
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
興味深い話法をもつ小説だ。難解なメタフィクションなどではない。新人ボクサーの鬱屈と奮起を体感しながらぐいぐい読める青春小説だ。それでいて、虚構の正体をそっと暴露するような性質を備えている。
「ぼく」はデビュー戦KOで勝ったものの、その後は二敗一分けと敗けが込んでいる。冒頭は「おなじみの寂寥。窓をあける。」と始まる。試合の日だ。「きょうこそ勝たなければ。自分ルールとして、敗けたら引退、などを主とした試合後のことを極力考えないようにしていた」と心情が綴られ、さらに、対戦までに相手のスタイルなどを調べあげ、仮想親友になってしまう「ぼく」の習慣や、トレーナーとのメッセージのやりとりなどが語られる。読者は「ぼく」のいる「今」と同じ時間にいる気になるだろう。
さて、試合場面。「実際に拳を交えてみると、相手のジャブがおもったよりのびてき、〈中略〉面食らった」。このあたりから、文章の「過去形」が要注意になってくる。「不安があった。自分なりに一瞬一瞬を懸命に生きた」。おや、これは眼前で展開する試合ではないのか? 読み進めると、「ぼく」が試合の録画を見ていたとわかり、本作の語りがいっきに怪しく魅惑的な輝きを帯びだす。これは、小説のナラティヴが瞬間的に生みだす現在としての「過去」で、冒頭の「きょう」は本作特有の話法における「過去」なのか? 又はビデオに録られた「過去」の複製とそれに伴う回想なのか?
しかも、映画製作に入れ込む「友だち」がずっと「ぼく」のことをビデオに撮っているのだ。どこが録画で、どこがそうでないのか? このように、作中人物が「今」を生きる語りの上の過去と、呼び起された記憶と、記録された過去のコピーは、特に日本語では区別がつかない。そんな小説の約束事の曖昧さが暴かれる。
となれば、結末の解釈も一つではないはずだ。主人公は次の試合で……? ぜひ本書で確かめて下さい。