この道…古井由吉著 講談社

レビュー

3
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この道

『この道』

著者
古井 由吉 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065143360
発売日
2019/02/02
価格
2,052円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

この道…古井由吉著 講談社

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

 季節の変化を追いながら、老境にある作家が物思いを展開する。八つの連作短篇(たんぺん)は、二〇一七年の春から翌年の夏までを舞台としているが、そのあいまに過去の災害の記憶や戦争がもたらした傷痕、さらにいつか見た夢や、書物のなかの物語も入ってきて、語っているのが誰なのか、読んでいて方向を見失ったようになる。しかしそのめまいのような感覚が心地いい。

 芭蕉の句から題名をとった表題作の「この道」にかぎらず、語り手の作家やそのほかの人物が、山道や町なかの道を歩いている場面が多い。作家の自宅から私鉄の駅に至る、まがりくねった道は、昔は川だった。その微妙な傾きが歩いている身体をぐらつかせ、夜には片側の石垣が、髑髏(されこうべ)を並べているように見える。道はどこかへ行くための通路ではなく、生と死がまじりあう境界領域に変わっている。

 まじりあうと言えば、この作品では周囲の気温や湿度の変化もまた、人の身体に溶けこんでいく。子供時代の雨の日の午後、市場で丼の冷や飯をかきこむ魚屋の若い衆の姿に接して、「見ていた子供も、魚の臭いと相俟(あいま)って、濡れた体感に染まった。今にも微熱の差してきそうな」。ここで「濡れた体感」は、若い衆のものでも、子供のものでも、市場の空気でもある。

 終戦直後のある晩に若い男が二人、新宿の安酒場から歩き出し、翌日の夕刻まで歩き続け、奥多摩の山中に至ってしまったという逸話が語られる。歩くという日常的な行動にも、神秘につながる通路が潜んでいる。

 作中の別の箇所に見える言葉を借りれば「あやうい予兆」を感じながら、そこから気をそらすのでもなく、運命に逆らおうと試みるのでもなく、じっと受けとめること。老いの心境について語る小説のように見えるが、必ずしもそうではない。年齢の老若にかぎらず、自己そのものの内奥に横たわる、不可思議な感覚の重みを、とぎすまされた言葉で語り尽くしている。

読売新聞
2019年3月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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