『文豪お墓まいり記』
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文豪お墓まいり記 山崎ナオコーラ著
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
◆自身の死と、生を想う
墓は人のヒトたる証しの一つだ。他者の死に際して悲哀を感じる生き物は他にもいようが、その死を悼み、碑を築き、さらにはそれに向かっていずれ来る自らの死を想(おも)いさえするのはヒトだけだろう。その点で、他人の墓を巡り歩く掃苔家(そうたいか)の趣味は奥が深い。とりわけ作家が作家の墓に参るときには、石の下に眠る者のかつての生に、自身の今の生が否応(いやおう)なく重ねられることだろう。
もちろん山崎の文体は、いつもながら飄々(ひょうひょう)として微塵(みじん)も深刻ぶらない。作家自身に対する思いとともに、それぞれの墓地の近くの店で何を食べたかが呟(つぶや)くように綴(つづ)られているのだが、ときにこちらをドキリとさせるような文にも出会う。
たとえば、夫とともに金子光晴の墓参をすませた帰りのバスで「あの子のおまいりもしていこうか」とお互いに言い合い、「去年に流産で亡くした私たちの子どもを祀(まつ)っている神社に寄ってみた」というところ。たんに近所だったからというだけの行きがかりではない。金子と山崎との家族に対する想いがぴたりと重なるのだ。
金子は戦時中に、息子を生松葉でいぶしたり、大雨の中に裸で立たせたりしたという。虐待ではなく、気管支喘息(きかんしぜんそく)の発作を起こさせて、徴兵を逃れさせるために。山崎も言う、「夫のことも、それからいつかまた子どもに恵まれることができたらその子どもも、生松葉でいぶしたい」と。戦争に対して、「私たちは流されたのだ」とあとから弁解しないために、各人が「自分の行動を選択」しなければならない、と山崎は思う。墓前で人の死に向かうことには、自分の生を振りかえらせる力がある。
墓参前後ののどやかな気持ちも、今の平和があればこそ。春の彼岸は二十四日で明けるが、うららかな春の日、本書を片手に手近な文豪の墓に参じてみるのはどうだろう。二十六人もいるが、東京・三鷹の禅林寺に眠る太宰治なら、土用の丑(うし)の日に、山崎がしたように、太宰が通った蕎麦(そば)屋で鰻(うなぎ)を食べてから。
(文芸春秋・1674円)
1978年生まれ。作家。著書『美しい距離』『趣味で腹いっぱい』など。
◆もう1冊
山崎ナオコーラ著『かわいい夫』(夏葉社)。作家の日常をつづるエッセー集。