型に嵌らぬ多彩な著者が世の“違和感”をあげつらう
[レビュアー] 立川談四楼(落語家)
著者は俳優、タレント、ナレーター、コラムニスト、「折り顔」作家と多様な仕事をこなします。落語は玄人はだしですし、カレー店の店主でもあります。
そんな著者のコラムニストの部分が買われ、新聞の連載が人気を呼び、一冊になったのが本書です。まえがきにこうあります。「この国の多くの皆さんは、違和を感じてもそのことを周りに悟られないようにすることで大人として振る舞い、体裁を保つ人が多いような気がします」
著者は大人ではありません。まるで五歳児のように「『なぜだろう』『なぜかしら』という感覚が湧いた時、それを『なかったこと』にはできない性分なのです」。
ですから著者は様々な分野に違和感を抱きます。「第一章 永田町をめぐるあれこれ」「第二章 不健全な社会」「第三章 忖度するメディア」「第四章 変わりゆく言葉」という具合に、権威と多数派を次々と疑ってかかるのです。
平気で嘘をついたり、公文書を改竄(かいざん)したりする政治家や官僚は恰好の餌食です。特に日本のツートップ、総理と副総理は様々に違和感を持たれ、それはどこからくるのかと怪しまれ、追及されます。今でこそこの政権の危うさを多くの人が指摘しますが、著者はずいぶん前からそれを言い、多くの読者の共感を得ているのもなるほどと頷けるのです。
喋るということで共通するアナウンサーにも違和感は向けられます。「現場にいます」で済む話を、近年のアナ諸氏は「私はいま現場にいます」と、「私」を入れることが多いと言うのです。これは聞き逃していました。で注目したら、確かに言ってるんです。「私は……」と。
著者の投じる違和感は直球ばかりではなく、変化球も混じります。エグいシュートもあればストンと落ちるフォークボールもあります。多種類の違和感を味わううち、それはきっと共感に変わることでしょう。