【文庫双六】「遠野」に惹かれた若き日の井上ひさし――川本三郎

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新釈遠野物語

『新釈遠野物語』

著者
井上 ひさし [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101168074
発売日
1980/10/28
価格
649円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「遠野」に惹かれた若き日の井上ひさし

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 JR釜石線は宮沢賢治の故郷花巻と三陸沿岸の釜石を結ぶ。沿線の風景がよく、鉄道好きには人気の路線。

 途中、仙人峠の大ループ(Ω(オメガ)ループ)は鉄道名所。前身は岩手軽便(けいべん)鉄道で、賢治『銀河鉄道の夜』のモチーフになったとされる。

 途中、民話の里、遠野がある。言うまでもなく柳田国男『遠野物語』の地。

 井上ひさしは若い頃に釜石で過したことがある。東京の上智大学に入学したが大学に失望して休学。当時母親が居酒屋を開いていた釜石で暮すことになった。

 しばらく母の仕事を手伝ったあと、釜石と遠野のあいだの山のなかに新設された国立療養所の事務職員になった。昭和二十八年頃。

 当然のように『遠野物語』に夢中になり、山人(さんじん)たちの、人と自然が一体となった暮しに惹かれた。

『新釈 遠野物語』はそこから生まれた井上版『遠野物語』。柳田版と違い、民話ならではのおおらかなユーモア、誇張、奇想天外にあふれている。ホラ話の楽しさもある。

 ただ根底のところでは『遠野物語』の、人間と生き物が混然となった豊かな世界が受け継がれている。

 若い娘と馬が愛し合う。ついには情死する。狐が美女に化ける。河童が子供の姿で現われる。

 昔々あるところでは、動物が人間になったり、空想の生き物が人間と喋ったり、あるいは馬や狐と人間が情を交わしたりしてもなんら不思議はなかった。

『遠野物語』は柳田国男が遠野の人、佐々木鏡石(きょうせき)から聞いた話を書き記したものだが、井上版では若き日の井上を思わせる「ぼく」が山に住む犬伏(いぬぶせ)太吉なる老人から話を聞く。この老人がなかなかの曲者で実は……。

 現在、釜石駅前には井上ひさしが地元の釜石小学校のために書いた校歌の歌碑が建てられている(作曲は宇野誠一郎)。

 その釜石小学校の前には林芙美子の文学碑がある。昭和十三年の作『波濤』の主人公が釜石の製鉄所で働いていたという縁。

新潮社 週刊新潮
2019年4月4日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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