『星をかすめる風』
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星をかすめる風 イ・ジョンミョン著
[レビュアー] 岡本啓(詩人)
◆獄中詩人と検閲官の「対話」
出発した京都は穏やかな秋晴れだった。けれどソウルの夜はもう雪が舞っていた。一昨年の日韓詩人交流会の前日、私は他愛のない会話ではっとした。戦争中に日本が朝鮮の人にした行為はこちらの人には到底受け入れることができない。でも文学だと読むことができるんだよね。同行の詩人がそう呟(つぶや)いたのだ。それまで私は詩を日常語として捉え、文学のなかへ大げさに位置づけてほしくないと考えていた。どこかで自分は文学の力を軽視していた。
この物語の核となるのは、詩人、尹東柱(ユンドンジュ)だ。尹東柱は第二次世界大戦中に福岡刑務所で獄中死した。その事実をもとにしたこのフィクションは、詩を焼却すると同時に詩を愛そうとする検閲官の物語である。母語を奪われた朝鮮人は「魂を奪い取る権利を持つ者もいないはず」なのに「体だけでなく魂まで一緒に収監」される。それを看守の暴力による緊張感と眩(まばゆ)い音楽との強いコントラストで描く。
若い日本人の看守の視点から展開するのだから、日本人作家による小説として読むこともできるはずだ。けれど積み重なる比喩に異なりがある。「焼き鏝(ごて)」「血も凍りつくような」あるいは「面長の顔は陶磁器のようになめらかで」。島国でなく半島に根ざす、熱く冷たい鋭利な皮膚感覚があらわれている。
ただ本著を凄惨(せいさん)な時代の重苦しい小説と誤解してほしくない。監獄内の殺人事件ではじまりを告げるミステリーであり、脱獄劇があり、詩は暗号としても登場する。言語への深い洞察にくわえて、力強く読者をひきこんでいく充実したエンターテインメントの一冊でもあるのだ。
囚人たちの葉書を代筆する東柱は言葉の表情を選び、一方、検閲官は黒く塗り潰(つぶ)す文面を選ぶ。現実には交通不可能な人間同士だけれど、このやりとりにひそかな対話を著者は見いだそうとする。そこに人間を憎みきらない著者の澄んだ心が滲(にじ)む。「ある場合にはフィクションが事実よりもっと多くの真実を語ることができます」。著者は文学の力を信じているのだ。
(鴨良子(かもよしこ)訳、論創社・2376円)
韓国の作家。本作は2012年に出版され、17年にイタリアのバンカレッラ賞を受賞。
◆もう1冊
金時鐘(キムシジョン)編訳『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(岩波文庫)