現代美術作家・ミヤギフトシが人間の性のあり方と既存の一般社会の危うさを描く

レビュー

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ディスタント

『ディスタント』

著者
ミヤギ フトシ [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309027968
発売日
2019/04/16
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

感情を言語化するまでの距離

[レビュアー] 鈴木みのり(ライター、俳優)

 恋愛、友情、家族のような「親密さ」をめぐる話は、なかなか深掘りして話しにくい。友人など近しい相手にならできても、仕事つながりの場だと、避けたり。生活の中のささやかな出来事や、セックスが絡んでくると、内実の説明に言葉が尽くせない場合が多い。論理が及ばないところがある。他方、「彼氏・彼女がいるのかどうか?」「結婚はまだか?」といったような話題は日常的に出てきて、時に職場でも許されたりもする。恋愛体験や家族形成を「親密さ」の領域ではなくて「社会的に当たり前の」とするからこその素朴な疑問、トピックと捉えているからだろう。こうした価値観がさらに暴力的に家父長制と結びつくと、家族を持たないのは責任感がないとか男は家族を養ってやっと一人前とか、そういう言説に発展するのではないか。規範的な男性性は、生まれたとき名指された性別に違和感なくいられる状態のシスジェンダーで、かつ異性愛(ヘテロセクシュアル)、という属性を前提としていて、さらに感情に乱されない自律性や、金銭的に十分に自分を養える自立性が要求される。

 本書は三編によって構成され、その語り手はおそらくシスジェンダーだろうけれど、同性愛属性を持つ者だろう。簡単に言ってしまえば、シス・ヘテロを前提とした「一般社会」において、その伝統的な家族像やロマンティック・ラブには当てはまらない、非規範的な男性の声を可視化しようとする試みだ。しかし本書には、ヘテロ男性からゲイ男性に対して向けられやすい「襲わないでくれよ」的な、性欲の塊だと不当に決めつけるステレオタイプに則した、ぎらぎらとした欲望の描写は見当たらない。もっとささやかで、感情のひっそりとした泡立ちを探ろうとしている。例えば〈左足の甲がジョシュのうなじに触れた。ホクロに触れた感触があった〉のように。

「好き」とか「キスしたい」とか「抱きたい(抱かれたい)」のような、はっきりと輪郭を持つ情愛や欲望ではなく、その手前にあって、戸惑い、堰き止め、押し黙り、それでも好意につながりそうな興味や好奇心を抑えきれず見つめてしまう、そういう、ある種「遠い」ところから世界をまなざしているような文体だ。「好き」と自分の中で言語化するまでに、その好意の対象が同性だったり非規範的な感情であるとしたら、そもそもハードルが高いのではないだろうか。相手に好意を伝えるかどうかという話以前に、規範的な在り方と異なる自分を認めるためには、一般的には存在しない言葉を探すという骨の折れる作業を経ないといけないからだ。この社会の「普通」に、つまりシス・ヘテロを前提とする社会に、同性愛属性がないものとされ、コミュニケーションが取られている日々の中で、〈自分の核心に触れられないように、常に迂回して行動し、言葉を発していた〉とまで言うのは相当な抑圧ではないか? このような遮られた状態・立場から、いかに言葉を繰り出していくかに、ミヤギは苦心しているように感じられる。ここに存在するのに存在しないという、喪失感と不安と向き合う途方もなさ。

 誰の、どの作品に価値があって、そうでないか? 価値判断をするのは誰か? という美術業界のヒエラルキーについても本書でふれられる。これは性的マジョリティ/マイノリティの権力関係や、マイノリティ内のさらなる権力関係にも通じる。

 とはいえ、三編ともに語り手にとって悲壮的な展開は迎えない。それはまだ社会的な身分の安定しない、未分と言える若者の登場人物が多くを占めていて、同性愛/異性愛とはっきりと分けきれない、個別の関係性における情愛や単純な好奇心の可能性の兆候が瑞々しく描かれているからだ。同時に、すでに中年と呼ばれる年齢に差し掛かるわたしにとって、この先、本書の若者たちが十年二十年と年を経るとき、シス・ヘテロありきの人間関係、家族像が前提の世界で疲れ、絶望する日が来るのではないかと懸念もし、たまらない気持ちにもなる。自分を抑圧し、ステレオタイプを選択し、同化せざるを得なくなるのではないかと。

 己の感情、欲望、好意(以前の関心)などを表すためだろう、映画、ポップミュージック、ロールプレイングゲームなどの固有名詞が本書には登場する。その扱われ方は、小説の外の別のカルチャーに依存しているような箇所もあって、小説のテーマと呼応するような飛躍に貫かれているとは言えない。けれど、シス・ヘテロの文脈で作られて一般的にもそう消費・受容されてきただろうカルチャーを、同性愛という文脈での読み替え、声の代弁としていくような取り組みと考えると、感慨深いものがある。本書が固有名詞に力を借りているのは、そうした転覆の意図と、好意の言語化の困難や直接的に表せない心象が背景にあるのかもしれない。

〈男たちが出会いを求めて集まるクルージングスポット〉という程度にしかミヤギは書いていないけれど、公園やハッテン場と呼ばれる場所でゲイ男性たちが、セクシュアルな意味も含めて交流する場所が、ひっそりと存在している/いた。本書は、その場で起きていた身体的な接触に直接ふれるのではなく、まず、非規範的なセクシュアリティの居場所と既存の一般社会とのあいだの接点と足場の危うさを、ひたすら見つめようとしている。一編進むごとに、さらにその先に踏み込もうとする道程が感じられ、苦い滋味が増す。

河出書房新社 文藝
2019年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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