ドナルド・キーンのオペラへようこそ! ドナルド・キーン著

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ドナルド・キーンのオペラへようこそ! ドナルド・キーン著

[レビュアー] 朝岡聡(フリーアナウンサー、コンサートソムリエ)

◆芸術への限りなく深い愛

 目次の次に載っている写真が素敵(すてき)だ。晩年の著者が、東京の自宅でお気に入りのオペラをDVDで観(み)ながら少年のように小躍りしているではないか! 日本への永住を決意してニューヨークを引き払う時に唯一辛(つら)かったのは、十六歳から通った「第二の家といってもいい」メトロポリタン歌劇場の定期会員の資格を手放すことだったともいう。ドナルド・キーンさん、実にオペラ鑑賞歴八十年…。 

 それほどまでに、人生を通して大切にし続けたオペラの魅力を語る時、その目線は温かく、やさしく、しかしながら当然深い。三島由紀夫、永井荷風(かふう)らとオペラを通じての思い出もあれば、「源氏物語」の光源氏と「ドン・ジョヴァンニ」を比較して、プレイボーイの似た者同士ではなく、愛と美を求めながらも両極端の存在であると考察したり、「トラヴィアータ」のヒロインは近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が描く浄瑠璃にも通じると説くあたりは、氏ならではの世界だ。

 初心者が観るべき筆頭と断言する「カルメン」やベストワンに推す「ドン・カルロス」など十一の作品紹介では、愛好家として長年養った目利きのツボがごく自然に語られてゆく。さらに、実際の舞台を何度も直接観て聴いた思い出の歌手八人の記述は、二十世紀のオペラ歌手の評伝としても格別の味わい。

 とりわけマリア・カラスを偲(しの)ぶ終章で、彼女だけが披露できた歌唱を説明する時に「上手の風力(ふうりき)を以(もっ)て、非を是に化かす見体(けんたい)なり」という、世阿弥(ぜあみ)の能楽論の一節を引用するくだりは心に残る。芸の達人が、時には故意に下手な技を取り入れる例を自らのマリア・カラス体験に照らして能の視点から観察できるのも、著者だからこその芸術的複眼だろう。

 この本には、オペラを論ずる時に付きものの音楽や声楽の専門用語はほとんど使われていない。日本文学を語るのと同じように、優れた芸術への限りない愛が、分かりやすさと深い説得力となって読む人に届く。

 キーンさん、ありがとう。

(訳・構成 中矢一義、文芸春秋・2160円)

1922~2019年。ニューヨーク生まれの日本文学研究者。東日本大震災後に日本国籍を取得し永住。

◆もう1冊 

朝岡聡著『恋とはどんなものかしら-歌劇(オペラ)的恋愛のカタチ』(東京新聞)

中日新聞 東京新聞
2019年5月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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