たとえば「自分軸」を持ってみる。大人だからこそ忘れたくない大切なこと
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『大人だからこそ忘れないでほしい45のこと』(齋藤 孝著、ワニブックス)の冒頭では、ニーチェの「憧れに向かって飛ぶ、情熱の矢となれ」ということばが紹介されています。
憧れに向かって飛ぶ矢とは、どこか俊敏で、エネルギーに満ちているように思えるのではないでしょうか。
人間は、いくつになっても、このエネルギーに満ちた“飛んでいる矢”であることが大切なのです。
そこで、本書を手にしたみなさんには、「自分は今、飛んでいる矢であるか?」。そう、自らに問いかけるクセをつけてみてほしいと思います。(「はじめに」より)
その際、的に当たるか当たらないかは無関係。
なぜなら“結果”ではなく“プロセス”こそが大事だから。
入社1年目などのフレッシュな時期こそ、人は“飛んでいる矢”であることが多いものです。ところが年数が経って場数を重ねていくと、次第に若々しさを失っていくものでもあります。
ちなみに、この場合の若々しさは見た目とは関係なく、「魂の若々しさ」であり、「エネルギーの若々しさ」だそう。
大人になると、どうしても“淀む”人が出てきます。まとう空気が重く、その場にいるだけで、何となく周囲を不愉快にさせるようなタイプの人です。
そんな人にならないためにも、大人であればこそ、自ら“脱皮”していくスタンスを持つこと。歳を重ねるほどに、古い殻を脱ぎ捨て、新しいことにチャレンジし続けること。
それこそが、現代における大人のたしなみといえるかもしれません。(「はじめに」より)
そんな考え方に基づいて書かれた本書の1章「『自分を見つめる』のなかから、2つのポイントを引き出してみたいと思います。
自分軸を持つことを忘れない
自分自身を、自らの評価基準(自分軸)で判断することはとても大切。とはいえ、あまりに客観性に欠けた自分軸だったとしたら、ただのワガママになりかねないのも事実。
また、大人になれば必然的に客観性が求められるようになるものでもあります。年齢を重ねるにつれ、ある程度の客観性を獲得していく必要があるということ。
では、その客観性を汲みつつ自分の評価軸を定めていくにあたり、もっとも必要なことはなんなのでしょうか?
著者によればそれは、“願力を鍛える”こと。これは鑑識眼といいかえることもできるそうです。
そしてこのことを考えるとき、著者は中学生時代に読んだ勝海舟の『氷川清話』を思い出すのだといいます。
坂本龍馬が西郷隆盛に会いたいというので、面識のあった勝海舟は西郷隆盛に紹介状を書いてやり、実際に坂本龍馬が西郷隆盛に会いに行きました。
西郷にあった後、帰ってきた坂本が勝に、「もしバカなら大きなバカで、利口であるなら大きな利口だろう」と感想を言いました。勝はそんな坂本のことを「坂本もなかなか鑑識があるやつだよ」と評価しています。
私はその鑑識という言葉を前にした瞬間、「そうか、人間には人間を見る眼力というものがあるのか!」と大いに腑に落ちたことを覚えています。
つまり、「この人の○○が優れている」と判断する力こそが鑑識眼、眼力です。(36~37ページより)
ちなみに“眼力を鍛える”ことは、自分の評価軸をつくることになるといいます。
また同時に、他の人をどう見るかという客観性も必要になるため、実際に検証をすることもできるそうです。
たとえば、数十人もが在籍するアイドルグループがありますね。そこで、「このうち、グループを卒業してなお、単独で人気を保ち続けることができるのは誰だろう?」と考えてみてください。
おそらく3年ほどが経ったとき、「ほら、僕の言った通りだ!」「いや、自分には眼力がなかったよ」といった具合に、自分の眼力の結果を知ることができるでしょう。いわゆる“見抜く”力というわけです。(37ページより)
同じように、サッカー観戦をしながら「あの選手は将来性がありそうだ」と予想をしてみたり、芸術作品を目にしたとき、「このアーティストは来る!」と目をつけるなどにも同じことが言えるでしょう。
自分なりの評価軸で評価をしてみる習慣をつければ、眼力が養われていくということ。
もちろん、すでに有名になっている人であってもOK。とにかく自分自身が、自分の評価軸で「これは来る!」と評価することがポイントだということ。
エンタメの世界などを通じ、楽しみながら眼力を鍛えれば、それだけでブレない自分軸を持てるようになるということです。(35ページより)
自分の知識、経験を一度は疑うことを忘れない
自己肯定力が高いというのは大事なこと。ただし、自分の知識や経験に自信を持ちすぎると、少し危険かもしれないと著者は記しています。
自分という存在自体を肯定するのはよいことだけれども、私たちが持っている知識や経験は「そのときはたまたまそうだった」という可能性があるから。
そこで、「決めつけない」「過信しない」ということが、独断を避けることにつながっていくわけです。
だからこそ誰もが、自分の知識や経験を一度は疑ってみるべきだということ。そして「相手がこう言っていたのは、悪意ではなく、勘違いかもしれない」というように、自分に問うてみることが大切だといいます。
「我思う、ゆえに我あり」で有名な哲学者のデカルトは、「とりあえず一切を疑ってみよ。そこから残ったものが砂金のように真実として浮かび上がるのだ」と言いました。つまり、疑えないのは「ここに疑っている自分がいる」という真実だけだというわけです。
また、昔の人は神の存在を疑うことがありませんでしたが、同じ哲学者のニーチェは「神は死んだ」として、従来の神の“在り方”を疑ってみせました。(49ページより)
デカルトが積み上げてきた“理性の力”も、実は練習して積み上げたものなのだといいます。
つまり、「はたしてこれは本当なのか?」と、いちいち疑ってみるという思考の訓練をしたということ。
その結果として、「これは○○に決まっている」などという決めつけや独断をしなくなったというわけです。
そしてそれは、どんなことにもあてはまるはずです。
たとえば誰かとトラブルになって、その相手に疑いの気持ちを持ったときにも、「あの人は本当に悪意があってあんなことを言ったのだろうか?」と自身を疑ってみると、「その人はたまたま気分が悪く、強く言いすぎただけだった」というような真実が見えてくるということ。
すると、「相手は本心ではなかった」ということを理解することが可能になるわけです。
なお、「ああいう、ちょっとしたところに彼の本心が見え隠れする」というようなことを言う人がいますが、著者はこの考え方に賛同しないのだそうです。
99%の部分を差し置いて、1%の部分だけに注目するのはおかしいと思いませんか? たとえば、いつも素行の悪い不良少年が1%よいことをしたからといって、品行方正な人には変身しません。
「昔はやんちゃしていてね」などと武勇伝のように語る人もいますが、武勇伝があってこそ今があるといったようなプロセスは、本来必要のないものです。
みなさんも、「昔は不良」だった人より、昔から真面目に努力していた人のほうが、ずっと偉いと思いませんか?(50~51ページより)
これは、本質を錯覚しているにすぎないと著者は言うのです。
ほんのわずかに見せた数%の部分に惑わされるような、“本質錯覚論”に引っかかってはいけないとも。
たとえば、失言などもそうです。人間ですから、誰しもたまには言葉のセレクトを間違うことがあります。
それにもかかわらず「あの発言に本性が出た!」と言わんばかりに叩くような人は、少々落ち着いて、自分自身を疑ってみてはどうでしょうか。
その失言自体よりも、普段のその人の在り方の方がはるかに見るべき部分なのですから……。(51ページより)
だからこそ、自分の知識や経験を過信せず、「これは○○に決まっている」などという独断をしないように気をつけることが大切だという考え方です。(46ページより)
以後の章は「『他人』を認める」「『これまで』を振り返る」「『これから』を想像する」と続いていきます。つまり「大人だから忘れるべきでないこと」を、さまざまな角度から紹介しているのです。
読んでみれば、いつしか忘れかけていた大切なことを思い出せるかもしれません。
Photo: 印南敦史
Source: ワニブックス