『悪の五輪』
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昭和の東京五輪「記録映画」を巡る“闇と光”の群像小説
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
五輪前の今こそ読むべき小説だ。
月村了衛『悪の五輪』は、映画制作を巡る群像小説である。利権を巡って裏で繰り広げられる抗争が軸となるが、同時に映画撮影という行為がいかに純粋な熱意に支えられているかも描かれている。その闇と光の対照が作る陰翳が美しい。
時代設定は一九六三年、物語の核になるのは東京オリンピックの記録映画だ。黒澤明が断って宙に浮いた監督の座を巡る駆け引きに、人見稀郎(きろう)というやくざが加わることから話は始まる。気脈の通じた相手を監督に就任させ興行界の利権争いに割り込もうとしているのだ。
稀郎の押した横車は意外な波紋を生み出す。伝説のやくざ・花形敬や最後の活動屋と言われた大映社長の永田雅一、右翼の妖怪・児玉誉士夫といった人々を作者は実名で登場させ、五輪開催にまつわる人間模様を立体的に織り上げるのである。
戦争で多くの物を失った代償として得たのがオリンピックという馬鹿騒ぎだ、と稀郎は嘆じる。「アジア初の五輪」なるものが巨大な虚栄に過ぎないことを彼は十分に知っているのだ。しかし、学徒出陣した兄の影響で映画を愛するようになった稀郎は、五輪映画の本質を理解しつつも制作に打ち込むことを止められない。それが映画だからだ。彼が矛盾を孕んだ人物であることが、物語を予測不可能なものにしている。
東京オリンピックは、日本が敗戦という暗い記憶を捨てるための禊ぎでもあった。そうした風潮に抵抗する者も登場する。たとえば自らの肉体に傷をつけることで、消えていく過去の日本と痛みを共有しようとする、花形敬のような男だ。しかしオリンピックへ向かう流れは強大にすぎ、小さな声など呑み込んでしまう。
本書で描かれる事態は一九六三年のものだが、背後には現在の風景が重なり合う。稀郎の葛藤、花形の苦痛を読者は我が身で共有しつつ、この国の明日を幻視するだろう。