『あなたの右手は蜂蜜の香り』
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見たことのない場所に連れられる興奮
[レビュアー] 藤田香織(書評家・評論家)
まずは「あなたの右手は蜂蜜の香り」というタイトルを見聞きして、なんとなく思い浮かべるストーリーや物語の空気感のようなものを、きれいさっぱり消し去って欲しい。いや、何を想像してもかまわないのだけれど、驚かないで欲しい。いやいや、驚くのだ。これはもう、どうしたって驚く。
こんな話だなんて。こんなところへたどり着くなんて。まさかこんなに心が震えるなんて。この感情を表す、巧い言葉が見つからない。それ以上に、巧い言葉でまとめたくない。
本書は、そんな厄介で、愛おしい物語なのである。
ニセコにほど近い北海道は倶知安町(くっちゃんちょう)に暮らしていた岡島雨子の人生が一変したのは、小学三年生の時だった。その日、国道沿いにクマが出て、学校からは集団下校と子どもだけでの外出禁止を言い渡されていた。けれど、好奇心旺盛な雨子は、クマを見たくてお母さんに嘘をつき、親友の那智くんと一緒に探しに出かけた。雨子は確かめたかったのだ。クマが出ると、みんな怖い危ない殺されると騒ぐ。でも、クマはいろいろなアニメになったりぬいぐるみになったりもしていて、めちゃくちゃ人気がある。それはいったい何故なのか。
クマって結局、怖いの? それともかわいいの?
目撃情報があった国道に向かうと、道路の真ん中に子グマがいた。かわいい。雨子は子グマに近づいた。近寄るな! 遠くで大人たちの声が聞こえても気にしなかった。だってこんなにかわいいのに! 子グマが蜂蜜の瓶に手を入れようとしているのを見た雨子は声をかける。「ほら、貸して」蜂蜜を出してあげるよ。「あたしは雨子。あなたの名前は?」。子グマの視線がそれて振り返ると、大きな親グマが立っていた。
バンッッ バンッッ バンッッ
猟友会の大人たちに撃たれた親グマの胸に空いた穴から、粘っこい血がどくどくあふれ出ているのを雨子は見た。近づいていった子グマが「おかあさん、だいじょうぶ?」という声を聞いた。「おかあさん、おかあさん」子グマのまんまるの目から、大粒の涙が雨のようにこぼれ落ちるのも、見た。
かくして、自分が母グマを殺してしまったという自責の念に駆られた雨子が、残された子グマの行方を捜しあて、ひとりで仙台の動物園に会いに行くまでが物語の「起」である。
動物園で子グマの声を再び聞いた雨子は、それから「心の形」を変えて生きることを決意する。「雪の介」と名づけられたあなたを守るため、助けるため、その願いを叶えるために、まずは飼育員になるべく考え得る限りの努力を重ねた。動物園の飼育員というだけでも狭き門なわけだが、雨子の場合はピンポイントで仙台の雪の介のいる園でなければ意味がない。
「起」に続く「承転」では、目標に向かってがむしゃらに頑張る姿が描かれ、それはまごうかたなき青春小説であり、お仕事小説でもあるのだけれど、「結」では結局のところ、そんなジャンル分けなど不可能であることを思い知らされる。
世の中の様々なことが、謎で不思議で納得できない雨子が「ほんとうのあたし」と「目的のために手段を選ばないあたし」に切り分けた心。「雨子は考えすぎだ」と、「生きていくことがしんどくなる一方なんだよ」と諭す育ての父の岡島さん。「人間は考えるのをやめたら、生きてはいけない」と言う生物学上の父・砂村さん。呪文の言葉マクシモフカ。ダメな大人の三太さん。両親が離婚した理由。「雨子」という名前の意味。条例違反だと通報されても土手で鳩に餌をやり続ける鳩子さんや、雪の介を引きとってくれた園長の言葉。那智くんが毎日つけていた日記――。何が正しくて、何が間違っているのか。事実と真実にどんな違いがあるのか。雨子が思い悩むたびに、自分が目を逸らしてきた物事を突き付けられた気持ちになる。それだけでも、十分すぎるほどなのに。
雨子がたどり着いた境地を、受け止めきれず、何度もため息を吐いた。「温かな物語」だなんてとてもまとめられない。バカだな雨子。どうするの雨子。でも……頑張ったね雨子。まとまらない思いが溢れ出す。
美しいのかは分からない。けれど、見たことのない場所へ連れて来られた静かな興奮は、今も胸に残っている。