みんなに「後光」が射している――佐江衆一『黄落』(新潮文庫)

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黄落

『黄落』

著者
佐江 衆一 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101466071
発売日
1999/09/29
価格
693円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

みんなに「後光」が射している

[レビュアー] 橋本五郎(読売新聞社特別編集委員)

 拝啓 佐藤トモアキ様

『黄落』、拝読しました。平成7年の単行本の刊行直後に読みましたので、2回目になります。一語一語、心に沁みました。そして19年前、胃がんで胃の全摘手術を受けた時のことを思い出しました。50日の入院中、リハビリのため廊下を行き来するのを日課にしていました。そこで気づきました。年の頃45、6から60歳ぐらいの女性が一生懸命、お年寄りを介護しているのです。どうしてこんなに多いのだろうかと不思議に思い、何人かに聞いてみました。そこには共通するものがありました。

 それは「後悔」の気持ちです。自分は舅、姑をちゃんと見送っただろうか。子育てが忙しく、確執もあったかもしれない。しかし、二人とも亡くなった今、自分は十分介護できなかったという悔いが残り、「贖罪」のためボランティアで病院に来ているのです。深く心打たれました。みんな辛い重荷を背負いながら生きていることを実感しました。そのことに思いを馳せることなく記事を書くのは不遜だと思いました。以来「あなたの文章が変わりましたね」と言われました。

 前置きが長くなってしまいました。トモアキさん、本当に大変でしたね。今92歳の父親と87歳の母親を12年前に近くに呼び寄せて住み始めましたが、「災厄」がこれでもかこれでもかと襲いかかりました。お母さんの大腿骨骨折と入院、右手の甲の火傷、気がふれたように両足を投げ出してのビール飲み……。作家として仕事をするどころではありません。あげくはバイク事故にまで見舞われてしまいました。

 しかし、何より辛かったのは奥さんとの関係でしたね。「あなた病院で、わたしを責める冷たい目で見たわね。あの目はなによ。……一生忘れないわ」「男はずるいわ」「親の世話を妻におしつけて当り前だと思ってるわ」。その通りだけに一語一語が胸に突き刺さったことでしょう。「離婚しよう」と言ったのも、奥さんの献身に対する感謝があったからだと理解できます。介護問題とは、介護する人と介護される人の関係だけでなく、介護する人同士の関係が大事なんですね。

 苦労の連続(もちろん奥さんの方が数倍大変だったのでしょうが)だけに、全体が暗いかと思いきや、この小説は意外にも明るいことに気づきました。両親が引っ越してきて以来、ずっとお父さんの床屋さんをしてきました。デイサービスを承知してくれた母に感謝し、せめて息子のつくったあたたかい蒸しタオルで躯を拭くようにと渡しました。デイサービスに行く前日には、お母さんに花柄のブラウスを買ってあげ、足の爪を切り、むくんで熱っぽい足まで撫でさすったじゃないですか。私には限りなく貴いものに映ります。「後光」が射していると言われて当然です。

 父と母が死んでくれたらと願う気持ちが脳裡の片隅に浮かんだからといって何ですか。避けようがないではありませんか。母をもっと長生きさせられたのではないか、私の冷酷さと不甲斐なさが母の寿命を縮めたのではないか。そう己をむち打つ気持ちはわからないわけではありません。でも、自分を責めすぎです。十分すぎるほど尽くしてきました。

 それにしても食を絶って死を迎えるお母さんの最期は衝撃でした。荘厳でさえあります。ましてや狂気を装って、夫(お父さん)を道連れにしようとした凄さには驚嘆しました。何よりの極めつきは「わたしはね……結婚していないのよ」という最後の言葉です。夫を許さぬ執念にたじろぎ、思わずわが身を振り返ってしまいました。妻の心の奥底に潜んでいるであろうものに恐怖を覚えたのです。

 私には妻の両親も含めて深刻な介護の経験がありません。ですから介護で毎日身も心もすり減らしておられる多くの方々を前に何かを言う資格はありませんが、生きるにあたって大事にしている言葉があります。小渕恵三元首相の「宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える」というものです。人間には自分ではいかんともし難い宿命がある。その宿命を嘆くことなく、己の信じる道をしっかりと見定めて生きていくことの大切さを記したものです。それは「自然体」と言ってもいいと思います。「根くらべだな。だけど、自然にまかせるほかはないね……」というトモアキさんの呟きと同じ境地です。どうか、くれぐれもご無理をなさらないようにしていただきたいと思います。敬具

新潮社 波
2019年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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